KISSは拳に 第4話 敗者

 パンドラスウエルター級。三沢の後輩の郷野の試合は第三試合に組まれていた。三沢は実況席にゲストとして呼ばれ、解説を勤めていた。
「三沢さん。いよいよジムの後輩である郷野選手の試合ですね」
 メインまであと数戦あるので会場内の観客は疎らだった。三沢は自分のプロレスデビュー戦を思い出していた。自分の時も観客はほとんどいなかった。
 どんなに一生懸命に試合をこなしていても、観客の反応がなければ身体は熱を帯びない。歓声だけではなく、怒号や罵声も格闘家の荒ぶる魂を熱くさせるのには必要なのだ。
「そうですね。あいつにとっては正念場の試合ですよ」
 郷野の戦績は11戦5勝6敗2KO。煮え切らない試合が続いている上に、現在二連敗中だった。この試合も負ける事があれば、団体から契約の打ち切りの話が出るかもしれない。たとえ勝ったとしても、ただの勝ちではだめだ。派手なKO勝利。相当なインパクトを残さなければ客にもそっぽを向かれる。
 試合前、三沢は郷野の控室に向かった。大部屋にカーテン代わりのタオルを掛けた即席の仕切りの中で、郷野は何度も渋川とミット打ちを繰り返していた。
「身体を暖めるのが早いんじゃないか?」
「うす。落ち着かないんですよ。動いていないと」
 郷野の格闘センスは凡庸なものだった。元々運動部などに所属していなく、格闘技マニアからこの世界に入った。貧弱な彼の身体を見て、当時のプロレス団体の入門試験の担当者は「諦めろ」と冷たく引き離した。しかし、郷野は決して引かなかった。
「いやです。とにかく迷惑はかけません。必ず最後までやり遂げます。だから、入門を許して下さい」
 熱意に負けて担当者は入門を許した。当然、郷野が一カ月もつと考えた者はいなかった。
 しかし三か月が経ちその代の入門者で残ったのは郷野を含めた二人だけだった。彼はすべての練習において遅れをとっていたが、決して弱音を吐かず黙々と練習についてきた。格闘技への愛と根性が彼を支えていたのだ。
 三沢は自分と同じような境遇の彼をかわいがっていた。確かに格闘技において才能は重要だ。しかしそれを補う余りある努力ができる事も才能と言えると自分自身の体験から堅く信じていた。
「三沢さん。俺、怖いっすよ」
 ストレッチをしながら郷野がポツリと呟いた。
「なんだ?試合前からそんな弱気じゃ負けるぞ」
「ですよね。でも、怖いんですよ。今日負けたら俺終わりですよ。負けた時の事を考えると不安で」
 郷野は二年前に結婚をした。どこかのカフェの店員だった女をナンパしてすぐに子供ができた。
「バカ野郎。嫁さんも子供もいるんだ。もっと気合入れろよ」
「だから怖いんですよ。今回負けたら俺は終わりです。嫁も子供も俺に愛想を尽かして逃げてゆくかもしれない。そうなったら生きていけないっす。近頃はそんな夢ばかり見るんです」
 総合に転身する時、三沢自身もその事には恐怖を感じた。プロレスの場合、自分が勝とうが負けようが食いぶちがなくなる事はなかった。レスラーは団体に所属するサラリーマンだ。与えられたキャラクターを演じていれば勝っても負けても食いぶちはなくならない。
 しかし、リアルファイトとなるとそうはいかない。勝たなければ次はない。負けたら終わり。生きる為には戦い、勝ち続けなくてはならない。だから試合前はとてもナーバスになる。もし負けたら。怪我をしたら。戦えなくなったら・・・。様々な不安が頭を過ぎる。
 三沢自身は、試合前にそんな事を思い描く事はない。元来の勝気な性格が幸いしているのもあったが、普段の練習への姿勢も影響している。決して一日の練習に手を抜かない。限界まで自らを追い込む。その積み重ねが試合当日に余計な不安を与えず、いい意味での諦めと自信を生む。
 郷野も練習に手を抜かない男だ。しかし、契約を切られるかもしれないという恐怖が練習から生まれた自信を減退させていた。
「おい郷野。お前なんの為に練習してきた。負ける為にじゃないだろ。勝つためだ。自分を信じろ。俺はお前の妥協しない練習を見てきた。渋川先生もついてる。負ける要素なんてないじゃないか」
 三沢は郷野の背中に思い切り平手を打った。赤いミミズ腫れが広がってゆく。
「おす!すいません。気合入りました。やるしかないですよね」
「そうだ。打撃からの足絡み。何度も繰り返しただろ。それしかねえ」
「うす!」
 三沢が控室を後にする間際、郷野はスポーツバッグから家族の写真を取り出して眺めていた。守るモノがあると人は強くなれるのか。それとも、足枷になるだけなのか。どちらにせよ、三沢には郷野の勝利を祈るしかなかった。

「さあ。郷野 対 田嶋の試合が始まりました」
 試合は静かな立ち上がりを見せた。
「郷野!ジャブで間合いを計れ」
相手はレスリング上がりの新人だった。レスリング出身者は腰が重い。スピードのない郷野がタックルに入っても倒れる事はないだろう。
 三沢は同じレスリング出身者として何度もスパーの相手をした。しかしやはり、活路は打撃だろう。柔道出身者も同じだが、顔面への攻撃に恐怖心がある。打撃で気を逸らした上でのパウンド。そして関節。それが勝たなくてはいけない郷野の戦略のはずだった。
「よし、いいジャブだ。郷野!キレてるぞ!」
 何度か相手はタックルで郷野を倒しにかかってきたが、この日の郷野は身体のキレが良く上手く返していた。
試合が進んでゆくと、少しずつ郷野の動きが速くなってきた。緊張が解れ、身体の調子の良さを理解したのだろう。さっきまでの弱気さも息を潜め、打撃にコンビネーションも織り交ぜるようになった。
「三沢さん。郷野、調子いいみたいですね」
「ああ。気を抜かなければいいが」
 格闘技マニアであったせいか、郷野はテクニックに溺れる節があった。自分が優勢だと思うと格闘マンガの主人公になった様な気になると言うのだ。その浮足立った瞬間に、彼は何度もパンチを食らっている。
 郷野の左フックが相手の顎に入り腰が落ちた。その瞬間を見逃さず郷野がラッシュをかけた。ワンツーからハイキック。確実に効いている。しかし相手は倒れない。
 自分ならどうするか。三沢はシュミレーションをしていた。精神力で立ち続ける相手には意識をカットするのが有効だ。フック。アッパー。打撃に自信がある選手なら意識を遮断する攻撃を狙う。しかし、郷野にはパンチがなかった。有効打は何発かあったが相手の戦意は衰えていない。
 すると次第に郷野のパンチが大振りになっていった。拳が相手に当たる感覚が彼に余裕を持たせてしまった。練習通りの脇を締めた細かいパンチは息を潜め、KO狙いの雑なパンチばかりになった。そして、大振りなフックを繰り出しマットで足を滑らせバランスを崩した瞬間に相手の膝が郷野の鼻に命中した。
 白いマットに鮮血が散った。倒れた郷野の顔面にさらに踏みつけが入った。郷野は必死にガードし身体を丸めたがマウントを取られた。万事休す。上から二発目の拳を受けた所で試合はレフリーに止められた。
 疎らな拍手が会場から湧き出た。郷野はしばらく立ち上がらなかった。
「いやあ。素晴らしい逆転勝利でしたね」
 アナウンサーは勝った相手を湛えた。郷野に対するコメントはない。これがこの世界だ。負けた者は簡単に淘汰されてゆく。
「格闘家として瞬間のチャンスを逃さないのは大切だ。デビュー戦でのKOは自信になる」
 三沢もそれに乗っ取りコメントを吐きだした。敗者にかける言葉はない。しかしやはり彼にも後悔は募る。練習を共にした仲間が目の前で負けたのだ。責任の一端を感じないわけもない。
 郷野は優勢だった。パンチで倒しにいったのは明らかな本人のミスだ。大振りなパンチなどせず、練習通りの倒してからの足絡み。それができていれば結果は変わっていただろう。倒したいという焦りと欲に溺れたのが敗因なのは明確だった。
 しかしそんな郷野を誰も責める事はできない。格闘家として、男として、相手を拳で倒したいと思う衝動は性とも言える。
 郷野がいなくなったリングでは、すぐに次の試合の準備が始まっていた。観客がメインイベントに向けて少しずつ増えてゆく。
 郷野の試合を見ていた客は数える程だった。彼の人生を賭けた大一番はまるでなかったかのように忘れ去られてゆく。わずかな痕跡はマットに残った鼻血だけだった。
 実況席から渋川に肩を貸された郷野が暗い花道を去ってゆくのが見えた。彼に歓声は一つもかけられなかった。スポットライトは、決して敗者を照らす事はない。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。