KISSは拳に 第6話 三沢真也 対 ボドリゴ・サンチェス

「長いな」
 控室で三沢は時計を気にしながらアップを続けていた。地上波で放映されるイベントは初めてだった。豪奢な入場や時間調整の為に三沢の試合は予定の時刻よりも30分遅れていた。
「あまり身体を温め過ぎるな」
 渋川がミットを置いた。タオルを身体にかけ、床に座ってストレッチをする。控室のテレビには現在行われている試合が流されていた。
「さっさとKOで終わってくれればいいんだが」
 前の団体の時は試合一時間前に会場入りしアップをしていると丁度いいタイミングで試合を迎える事ができた。しかし、大きな団体はそうはいかない。客を煽るVTRを流したり、試合間に次のイベントに出る選手がマイクパフォーマンスをしたりと定刻通りに試合が始まる事はない。温めた身体が少しずつ冷えてゆくのを感じる。身体の柔らかさを失わない様に、三沢は入念にストレッチを繰り返す。
 渋川はイラついていた。もう少し遅く会場入りすべきだった。選手は一定のリズムが壊れ自分のペースを崩される事を嫌う。いつもと違う感覚の中で違和感を覚えると、自分の調子があまり良くないのではないかと勘違いしてしまう時がある。渋川はトレーナーとしてイベントの進行も頭に入れておくべきだったと恥じていた。余った時間は選手の緊張をも助長する。
 選手を諦めてトレーナーとしての人生を選んだ時、渋川は教え子達の管理の徹底を心に誓った。ただ厳しくしようと言う事ではない。自分の生活を失くしてでも選手のペースに合わせ、それを崩さない様にするという自己犠牲の精神だ。
渋川自身も格闘家だった。しかし、結局チャンピオンにはなれなかった。自分が最強に届かなかったのは、格闘技が広まっていない当時に優秀なトレーナーがいなかったからであると信じて疑っていない。
 選手とて人間だ。時に甘えや誘惑に身を委ねたいという衝動に駆られることもある。その時に厳しく叱咤し、練習に集中できる環境を作ってやるのがトレーナーの仕事だ。渋川自身、自分の弱さによって大事な試合で勝ちを逃した経験があった。
選手当人の精神的な強さは前提条件だが、それを支えるトレーナーがいなければ強い選手は生まれない。そして、その可能性のある選手が今から試合をしようとしている。コンディションとモチベーションの不足は本人だけでなく、自分の責任も大きいと自覚していた。
「ちょっと主催者に文句言ってくる」
 渋川は、だらだらとした進行に我慢ならずに立ちあがった。
「大丈夫だよ。ほら」
すると行われていた試合がKOで決着がついた。
「よし、あと一試合か」
三沢はゆっくりと精神を集中させてゆく。目を閉じてキツイ練習を思い出す。
パンチ、キックの練習は普段通り。グランドの練習には力を込めた。柔道金メダリストですら今の俺には勝てない。今の俺に、トータルファイトで勝てる奴などいない。自分に言い聞かせる。
 練習に少しでも手を抜いた選手ならば、この時に不安が押し寄せるだろう。しかし三沢は決して手を抜く事はない。したがって厳しい練習を耐えたという自負が序々に身体を満たしてゆく。
 待たされた事を愚にもかけずに集中してゆく三沢の姿を見ていると、渋川はなんとも素晴らしい才能を持っている男だと思った。プロレスラー時代の三沢の姿を見た時、最初に着目したのはレスラーらしくない身体つきだった。余分な脂肪が少なく、筋肉質だった。そして時折り繰り出す力の入っていないパンチや蹴りにキレがあった。
 共に練習してゆくと、その精神の強さと貪欲さと対応能力に目を見張った。デビューから二試合は負けをきしたが、プロレスラーとしての脂肪が抜けさらに身体がシェイプされると素晴らしい動きを見せるようになった。
飲み込みも早く、何より練習の虫だった。言わないといつまでもトレーニングを続ける。性格も至って明るく華があった。
 運動能力だけで言えば三沢を超える人間は数多くいた。しかし、それだけでは勝ち残ってはいけない。モチベーションを維持する聡明さと格闘技に対する興味と愛が不可欠だ。その点で、三沢は稀有な選手だった。
 公園で声をかけ負けを認めた時の三沢の涙。その後に口にした言葉の正直さを見た時、こいつなら最強になれると直感した。そして、その夢があと数試合先で叶うかもしれない。
「よし。もう一回ミット打ちをやるぞ」
 渋川は自らの興奮を隠す様にミットを手にはめた。するとテレビから歓声が響いた。三沢の前の試合もKOで決着がついたのだ。
「お。もう終わったか。行くぞ」
「オス」
 ショートスパッツの上から黒のガウンをはおる。黒いガウンの背中にはタトウーと同じマリアの刺繍が施してあった。
花道の裏に辿りつくと、セコンド数人と握手を交わし最後に渋川に頬を差し出した。
「よし。お前に勝てる奴などいない。お前が最強で最高だ!」
 渋川はデカイ声で叫ぶと三沢の頬を思いきり叩いた。
「っしゃあ!」
 気合を込めると入場曲が流れた。エミネムの「ルーズユアセルフ」。選曲は後輩に任せた。ゆっくりと始まったギターリフが心を湧きあがらせる。
黒幕が開く。満員のアリーナの客が一斉に三沢に視線を注ぐ。リングに目をやると、派手なラスタカラーのトランクスを吐いたサンチェスが見えた。それと同時に三沢の血が沸騰する。抑圧されていた様々な欲求が火を噴きそうになる。
「あいつを倒せば」
 花道を歩きながらもサンチェスから視線を絶対に逸らさない。リング横でボディチェックをされている時も、ロープを跨ぐ瞬間も決して。
 リングに三沢が立つと音楽が止んだ。リングアナウンサーがまずサンチェスを紹介する。
「ブラジル柔術アカデミー所属・・・」
様々な経歴が羅列され名前が叫ばれた。サンチェスは拳をまわして陽気に観客に応えた。
「続きまして赤コーナー。パンドラスミドル級チャンピオン。三沢真也」
 前の団体とは違う怒号のような歓声が三沢の身体を包んだ。一万人を越す観客の声援に三沢は自分の肌に悪寒が走ったのを感じた。
 リング中央に向かう。レフリーがルール説明をしている間も、三沢はサンチェスから目を離さない。サンチェスはニタニタしながらそれを受けている。
 ルール説明が終わると三沢はグローブを差し出した。サンチェスは三沢の拳を軽く叩いた。二人が一度コーナーまで離れる。
「いいか練習通りだ」
 渋川の言葉に頷くと同時にゴングが鳴った。
ゆっくりとした立ち上がり。三沢はオーソドックスな右構え。サンチェスは拳を平衡に構え、足でフットワークを刻んでいる。タックルに入るタイミングを計っているのだ。
 三沢は冷静だった。相手の肩や目のフェイントを余すことなく観察し、いつでも対応できるように準備をしている。
お互いにジャブで間合いを計る。すると、サンチェスがタックルを繰り出してきた。三沢はサンチェスの脇に腕を入れそのタックルをきる。会場からどよめきが起こる。客達の息を飲む音が聞こえる。
「いいぞ。三沢。ゆっくりでいいんだ」
 セコンドの渋川の声が鮮明に聞こえる。サンチェス陣営のブラジル語の声もだ。
しかし、その声は右から左へ流れてゆく。ゾーンに入ったリング場の選手にセコンドの声など無意味だ。他の事に気を取られれば、その一瞬に首を狩られる。そして一過性の指示に効き目などない。身体に擦り込まれた日々の練習の反応が勝負を決する。
 タックルへの反応はその日々の練習の賜物だった。サンチェスは続けざまにタックルを仕掛けてきたが、三沢は全てをカットし倒されなかった。
するとサンチェスが拳でワンツーを繰り出した。不意のコンビネーション。左のジャブが三沢の頬を掠めた。更には中指を立てて挑発してきた。パンチで勝負しようと言うのだ。
 罠であるのは明らかだ。パンチの勝負に載り、打撃に気を取られた時にグランドに持ち込む気なのは見え見えだった。
しかし、三沢はあえてその誘いにのった。同じ様に三沢も自分の間合いでサンチェスをグランドに持ち込む必要があった。彼も寝技で相手から一本取るのが目的だった。故に、打撃で気を反らせる必要があった。
 三沢もジャブからワンツーを放つ。ボディからアッパー。上下のコンビネーションだ。サンチェスも拳を放つ。しかし、お互いの拳はヒットしない。互いにけん制の拳であるのは明らかだった。
 会場がまた湧いた。グランド勝負かと思われていた試合が、いつの間にか打撃勝負になっている。KOへの期待感が膨れ上がる。
 いくつかのパンチの交換のあと、三沢はサンチェスの首を取り膝をボディにねじ込んだ。サンチェスの表情が微かに歪む。そのまま首相撲から足を駆けて倒そうとした。得意の形だ。
 しかしその時、立ったまま自分の首に掛けられた三沢の腕をサンチェスが掴んだ。そして、電光石火の速さで身体ごと飛びついて来た。飛びつきの腕十字だ。完全に不意をつかれた三沢は腕を取られたままサンチェスの体重に引き込まれた。
完全には決まっていない。とられた左腕を右腕でロックしている。すると、今度はサンチェスの長い足が三沢の首に巻きつけられた。三角締めだ。
「三沢。腕のロックを離すな」
 渋川の声が響く。三沢は考えている。どうすればこの状況から逃げられるか。空いている右腕でサンチェスの脇にボディを入れるが、なしの礫。じりじりと足に力が込められ、三沢の顔が赤く変化してゆく。
 腕は極まっていないが、首はほぼ完ぺきに極められた。想定外の攻撃。試合開始からまだ三分も経っていない。1Rは10分。ゴングに救われる事はまずない。
(また負けるのか)
 薄れて行く意識の中で負けを意識した。この瞬間、三沢の勝ちはなくなったに等しかった。気持の綻びが生まれた瞬間に、格闘家は敗北する。
動脈が締められてゆく。落ちる間際、人間は何とも言えない快感に支配される。温かい、母の懐で眠る時の様な安らかな眠りに誘われる感覚。それに身を委ねると意識が無くなる。自分に負けるのだ。
 目の前を何かが動いている。レフリーが自分の意識があるか確認しているのだ。ギリギリの境の中で三沢はどうにか目を見開く。
(ふざけるな。ふざける。俺はまだ戦える)
 睨むようにしてレフリーを見る。サンチェスの足の力は衰えない。鞭のような柔らかさを持つその足は、ゆっくりと首に埋没してくる。
 また意識が薄らぐ。その刹那、リングサイドにあの女を見つけた。女記者の鶴田だ。彼女は相変わらずの真っすぐな瞳で自分を見つめていた。
 冷静な眼差しだった。そこに慈悲はなかった。(負けるなら、負ければいい)現実を見据える力が込められている様な気がした。
 三沢はその瞳に映る自分の負ける姿を見ると恥じた。なんと情けない姿か。今、自分は負ける事を受け入れようとしていた。がむしゃらさを失おうとしていた事に気付いた。
 三沢はもう一度目を見開くと、取られている左腕とロックしている右腕に力を込めて、サンチェスを腕ごと持ち上げマットに叩きつけた。
 それでもサンチェスは離れない。ならばと、もう一度持ち上げて叩きつける。三沢に残されていたのはこの方法しかない。獅子落としの様に何度もサンチェスを持ち上げては叩きつける。
 四度目に持ち上げた時、サンチェスの腕のロックが三沢の身体から溢れた大量の汗により滑って外れた。足だけでぶら下がる形になったサンチェスの頭を、そのままマットに叩きつける。すると足のロックから力が薄れた。しかし休んでいる暇はない。三沢はまだ朦朧とする頭を必死に働かせる。
いや、身体が反復した練習を体現する。自然な所作で三沢はサンチェスの足を取りアキレス腱を極めた。柔らかい関節の持ち主であったサンチェスの足は一度では極まらなかったが、三沢はさらに角度を変え腱を伸ばし極め直した。するとビキビキと腱の伸びる音が聞こえた。その瞬間にサンチェスがタップしてレフリーが試合を止めた。
「勝者、三沢真也!」
 場内に勝ち名乗りが響いた。会場が歓声に包まれる。しかし、三沢はなかなか立ち上がる事ができなかった。締められていた頸動脈にしっかりと血が流れるまでに時間が必要だった。
天井の照明が眩しい。息が上がる程の試合は久しぶりだった。拳に爽快感はなかった。しかし、繰り返した練習が身体を動かしてくれた充実感と安心感は心を埋めていた。
「ほれ、さっさと立たんかい」
 渋川の不満そうな顔が現れた。内容が不服だったのは明らかだ。しかし、突然の飛びつき腕十字は想定外だった。
 三沢はゆっくりと立ち上がった。するとサンチェスが手を差し伸べてきた。彼には全く疲れた様子はなかった。当然だ。一瞬でアキレス腱を決められただけだ。試合内容から言えばサンチェスの勝ちだっただろう。
「コングラシュレイション」
「またやろう」
 三沢は日本語で応えた。サンチェスがそれを理解していたかどうかはわからない。しかし彼は頷きリングを降りていった。その時やっと、三沢は自分が勝ったのだと自覚した。
「ギリギリだったな。お前が汗っかきで助かった」
 渋川はまだ不満を募らせている。
「これは一からやり直しだな」
 するとアナウンサーからマイクを向けられた。
「それでは、三沢選手に一言お願いしましょう」
 三沢が息を切らしながらしゃべり始める。
「えーみなさん。今回は不甲斐ない試合でした。しかし、サンチェス選手はものすごく強かった」
 自然と会場から拍手が沸いた。客も理解しているのだ。やはりサンチェスが優勢な試合だった。
「次はすっきり勝てるように、もっと練習してきます。さて・・・」
すると三沢は早めにいつものコールに及んだ。彼も今回の試合内容で偉そうな事を語れない事は理解していた。
「それでは、みなさんご唱和ください。最強!」
「最高!」
「最高!」
「最強!」
 一万人規模の会場のコールは三沢の頭を揺らした。これがメジャーのメインの試合なのだと思った。これからはこの観衆を納得させる試合をしなくてはならない。三沢は心を引き締め直した。

○三沢真也 対 ●ボドリゴ・サンチェス 1R3分40秒 アキレス腱固め

三沢真也 17戦 15勝 2敗 15KO

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。