KISSは拳に 第8話 強くなるために

「ちわーす!」
 いつものようにジムで汗を流していると懐かしい声が響いた。
「おい郷野じゃないか!」
 誰かが驚きと喜びの混じった声で叫んだ。郷野は三沢の後輩だった。引退勧告とも言える三連敗を喫したあと、姿をくらまし音信不通になっていた。
「なんだその頭」
 郷野は少し前までの豊かな剛毛を剃り落としスキンヘッドになっていた。
「ご無沙汰しています皆さん。というか・・・申し訳ありません」
 ジムに一歩足を踏み入れるなり、郷野は膝をつき土下座した。
「申し訳ありません。連絡もしないで。心配かけまして」
 すると渋川が腕を組み不機嫌そうに言った。
「あほ。お前のことなんぞ誰も心配しとらんかったぞ」
 確かにその通りだった。芽の出ない格闘家が突然消息を絶つ事など日常茶飯事だった。何人もの男がこのジムの門を叩き、いつの間にか姿を消していった。
「おう。元気だったか?」
 しかし、三沢は心底安心していた。彼にとってはプロレス時代から可愛がった唯一の後輩だった。敗戦の後、連絡の取れなくなった郷野を三沢は探しまわった。死んでいるかもしれないとも思った。戦えなくなった格闘家の末路は厳しく悲惨である事を彼は何人も見て知っていた。
「三沢さん。お久しぶりです。すいませんでした」
 郷野は頭を上げないまま言った。
「バカ野郎。頭上げろ。誰もお前の事なんか心配しちゃいなかったよ」
 郷野はそのまま涙を流した。一日に何リットルも汗が流れるジムの中でその液体は異質だったか、ジムにいる誰もが郷野の気持を察していた。負けた格闘家の選択肢は二つしかない。死ぬか、それとももう一度戦うかだ。
 一度は戦う事を辞めようと思う。しかし戦う事しか知らないただの男が社会に受け入れられるはずがない。しかし生きて行くには働かなくてはならない。大概の者は社会の中で闘争本能を殺す。その生活と自分に慣れればいいが、多くの者は自滅して行く。
 それができなかった人間は、もう一度リングに戻ってくる。結局は自分にできる事は一つであると気付かされるのだ。どんなに醜い姿で負けても、戦いへの渇望と勝利した時の快感を忘れる事ができないのだ。格闘技には麻薬のような中毒性があるのだ。
 そして、郷野は後者を選んだ。それを口で確認するのは野暮であると誰もがわかっていた。頭を丸めて、土下座をしてまたジムに戻ってきた。その行動がすべてを表わしていると。
 彼に戦う場が用意されるかはわからない。あったとして、勝てるかどうかも不確かだ。しかし、共に汗を流す同士が帰ってきた。その結末がどうなろうと受け入れない理由はない。
自分もいつか負けて、同じ様になるかもしれない。その恐怖と不安は戦いを生業にする人間には常に付きまとっている。だからこそ、語らい、共に練習してその不安と恐怖を共有できる仲間を見捨てるわけにはいかない。ジムにいる男達は皆、郷野の姿に自らの未来を重ねていた。
「まったく湿っぽいのう。お前は。だから負けるんじゃ」
 渋川が土下座する郷野の脇腹に蹴りを入れた。郷野は泣きながら呻いた。
「かー。完全に鈍っとるな。さっさと着替えてこい。鍛え直してやる」
「おう。俺も試合が近い。スパーリングパートナーが足りねえところだったんだ」
 郷野はやっと立ち上がると「ありがとうございます!」と言い、喜び勇んでロッカールームに向かった。普段は殺伐としたジム内に和やかな雰囲気が広がる。
「先生も意外と優しいじゃないですか」
 三沢が擽るように言うと、渋川はすぐに厳しい表情を作った。 
「無駄話は終わりじゃ。練習の続きだ」
「オス!」
 三沢はまた激しくミットを打ち始めた。拳に伝わる感覚が気持いい。体調がいい事が感覚でわかる。この爽快感を人生の中で捨てようと思う事などあるのだろうか?三沢は数秒、そんな思考を浮かべたがジムの中に男達の野蛮な臭気が蘇ると、すぐに闘争の中に身を戻した。

「それで。家族はどうした?」
 練習後、ロッカールームで郷野と二人きりになった。久々の練習のせいか彼は疲れ果てていた。身体の締まりは失われ、格闘家とは呼べないものになっていたが、充実感を全身から漲らせていた。
「はい。だいぶ怒られました。家族からも逃げてしまったんで。あ、すいません。実家にまで来ていただいたようで」
「ああ。まあ気にするな。で、家族をどうやって説得した?」
「いやそれが、恐る恐る帰ったんですが女房は怒らなかったんです。最初は逆にそれが怖かったりしたんですが、やりたい事をやれって。私達はあんたについて行くからって言ってくれて」
「できた女房じゃねえか」
「はい。ずっと、嫁は反対してたんです。特に総合に移ってからは早く辞めてくれって言ってたくらいなんです。不思議なもんですね。でも、幸せな事です」
 郷野は心底嬉しそうにオープンフィンガーのグローブを眺めていた。身一つで戦う格闘家にとって、グローブは唯一許された自分を守る道具だ。
「そうだ三沢さん。次の相手決まったみたいですね」
「ああ。メルコフだ」
「怖くないんですか?人殺しですよ」
「あほ。怖いわけあるか。たまたまいいパンチが鶴田さんのテンプルに入っただけだ。毎回人を殺しているわけじゃない」
「確かにそうっすけど。あ、そういえばあの女とはどうしました?」
「あの女?」
「公開デートに誘った女ですよ。新聞に出てました」
 郷野は嬉しそうに言った。
「おう。惚れた。だが試合が終わるまではお預けだ」
「そんな。風俗嬢じゃないんですよ」
「うるせーよ」
 三沢は郷野の背中に思い切り平手打ちをかました。後背筋を失っていた郷野は絶叫を洩らした。
「そうだ郷野。お前に質問がある」
「なんすか?つかマジ痛いっすよ」
「うるせー。聞け。お前は嫁に惚れる前と惚れた後。どっちの自分の方が強いと思う?」
「なんすかそれ?考えた事もないっすよ。だいたい、俺はどっちにしろ弱いです」
「はっはっは。確かに」
 三沢が練習の中で鶴田の顔を想い浮かべる事はない。ましてや、今回の試合は彼女の為になどとも思っていない。三軒茶屋で会って以来、彼女には電話すらしていなかった。
 しかし練習のあと。もしくは夜寝る時。朝起きる時は必ず彼女の顔が浮かんだ。とてつもなく会いたくなり、抱きたいと思う。そんな時は携帯に手が伸びる。その瞬間に、三沢は自分が弱くなったのではないかと感じた。
 今までにこんな事はなかった。試合前に試合以外の事を考える事もなければ、一人の夜を侘しく思う事も。
 無論、練習に入ればそんな思いはなくなるのだが、ふと物悲しさを寝床で感じるとこんな事では自分は負けるのではないかとすら思う。それが、最近の三沢の不安要素だった。
「でも・・・」
 すると、郷野がグローブを大事そうにしまいながら続けた。
「惚れなかった方が、彼女がいなかった方がいいと思ったことは一度もないです」
「そうか」
「じゃあ。俺帰ります。お疲れです。また明日」
「おう。明日」
 三沢がシャワールームに向かうと郷野が戻ってきた。
「三沢さん」
「あ?」
「なんか、また明日っていいっすね」
「アホか」
 郷野は嬉しそうに小走りでジムを出て行った。
 シャワーを浴びている三沢の脳裏にまた鶴田の顔が浮かんだ。今浮かぶのは、真っすぐな視線ではなく、あの子供の様な笑顔だった。
 会いたい。単純にそう思う。しかしそれはできない。欲求を抑えつけ、それを試合の相手にぶつける事が正しいと体育会で育った彼は擦り込まれている。欲求をここで満たしてしまい試合で爆発させるものがなくなるのが怖い。
 しかし鶴田の顔を振り払おうとするがなかなかできない。しまいには下半身が起立してしまった。三沢はシャワーを水に変えて頭とモノを冷やした。
 冷たい水で身体を流すと幾分か頭がすっきりとした。しかしシャワーから出るとクシャミが出た。同時に、渋川が入ってきた。
「何しとんじゃずぶ濡れで」
「いや、何も・・・。」
人殺しメルコフとの試合まで、あと二週間を切っていた。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。