KISSは拳に 第10話 勝利の女神

 イベントが終了し、誰もいなくなった武道館を後にしようとすると鶴田が待っていた。三沢は吸い寄せられるように彼女の元に近づいた。
 不思議と試合の後だというのに切迫した欲求がこみ上げてくることはなかった。欲求とは違う何かが、三沢の試合後の緊張感を緩和させていた。そこに彼女が立っている事が当たり前のように思えた。
「顔、腫れてるわね」
 メルコフの鋭いジャブによってミミズ腫れが広がった三沢の頬を、鶴田が撫でた。数カ月振りの再会だった。しかし、そこに久しぶりに会うような感慨はなかった。
「たいした事はない」
 二人はゆっくりと歩き出した。月に照らされ浮かび上がる鶴田の小さい影を、三沢の大きな影が覆ってゆく。
 三沢の中に疑念がなかったわけではない。父親の仇と戦った。そして勝った。だからと言って、彼女は自分にどんな感情を持ったのだろうか。別に、彼女の為に試合をしたわけでもないし、そんな事は鶴田も望んでいなかっただろう。
 試合前にした黙祷も、ただの思いつきだった。自分の拳の過ちを悔いるメルコフの心情が伝わり、ただそうしなくてはならないと思っただけだった。しかし彼女はついて来る。自分の後を。影を追って。
 やがて、それだけでも十分ではないかと思った。試合の後に惚れた女が近くにいる。そして心地良い八月の風が吹いている。それは取りとめもない幸せだと。
 気がつくと、二人は三沢の家にいた。一時間程歩いた。その間、会話は交わさなかった。三沢はただ鶴田の前を歩き、彼女は三沢の背中に迷いなくついてきた。
「意外と小さな部屋」
 呟くように鶴田が言った。二人は小さなソファに並んで座っている。
「ああ。俺にはデカイ部屋は必要ない。練習して、家に帰ってくるのは寝る為だけだ」
「そう」
 また、無言になる。その時、三沢の身体に緊張が走った。艶のある髪の毛が覆う横顔を見ていると、触れたいと唐突な欲求が生まれた。しかし、そんな事をしてよいのかがわからない。素人の女と、惚れた女と部屋で二人きりになった事などなかった。
「ねえ」
「あ?」
 強張った身体に鶴田の声が刺さる。
「ありがとう」
「何がだ」
「わからない。でも、そう言わなきゃいけない気がする。父が死んでからずっと、私は心のわだかまりを拭えなかった。だってそうでしょ?病気とか、交通事故とかで死んだならわかるけど、あの人は自ら戦いに行って殴られて死んだのよ?この平和な国で。正直納得できなかった」
 鶴田は華奢な指先で拳を握りしめていた。三沢はただそれを見つめている。
「私は自分を納得させる為に記者になった。あなた達格闘家の話を聞けば、少しでも父を理解できるかもしれないと。でも、ずっと何も理解できなかった。女であり、戦わない私にはやっぱりわからなかった。何故戦うのか。だけど、今日すべてが理解できたの。黙祷のあとあなたの試合を見て。いいえ。理解なんてしていないのかもしれない。私には一生無理かもしれない。それでも、心が晴れた。ずっと父にあった蟠りが消えてゆくのがわかった。この世界で死んだのなら仕方がないって思えたの。だから、ありがとう」
 鶴田が三沢に顔を向けた。その瞬間に、三沢は強く鶴田を抱きしめた。躊躇はなかった。欲望とは違う愛おしさが身体をつき動かしたのだ。
「痛い」
 タックルの様な強さがあったせいか、鶴田が少し呻いた。
「すまない」
 三沢が少し腕の力を緩めると、彼女の手が三沢の身体を包んだ。なんと心地良いのかと思った。惚れていない女とは心地良さの次元が違った。がむしゃらに唇を重ねた。そして服を脱がせてゆく。三沢がTシャツを脱ぐ為に唇を離すと、二人の眼が合った。
 三沢はその瞬間に羞恥を感じた。女と裸で向き合う事に慣れていなかったからだ。すると鶴田が少し笑った。三沢はすぐにまたキスをし、彼女をソファに押し倒した。
 乱暴に、ぎこちなく三沢は鶴田を愛撫し、彼女は聖母の様に大らかにそれに応えた。
 今までに感じた事のない充足感と安心感の中、自分の腕の中にいる鶴田を三沢は見つめていた。格闘技以外に、出会えた事にここまでの喜びを感じる出来事はなかった。
 風俗の女もわるくはない。しかし、欲望をただ満たすだけの行為の中に相手を労わる気持はなかった。時に乱暴に、時に焦らし、快感を引き出す事だけに偏る行為に思いやりはない。
 しかし、鶴田とのそれはそうはいかなかった。乱暴な欲望と、傷つけてはいけないという優しさがせめぎ合い、真っすぐに快感だけを求める事は憚れた。正直な事を言えば、風俗嬢との方が快感は多かった。
 ただ、終わった後の身体に行き渡る満足感は、遥かにただの快感を凌ぐものがあった。身体の疲れも心地良かった。惚れた女と寝る事が、これほどまでに素晴らしいとは思わなかった。
「なあ」
 止めどない愛しさの中、鶴田を抱きながら三沢はある事にふと気付いた。
「あんた、名前は何て言うんだ?」
 考えてみれば、インパクトのある名字に気をとられて下の名前を聞いていなかった。すると、彼女は少しはにかんだ。
「あまり言いたくないわ」
「なぜ?」
「恥ずかしいから」
「いや、教えてくれ」
 すると鶴田は三沢の指を強く握って言った。
「真理亜」
その名前を聞いた途端、三沢は驚きと共に自分の身体に力が漲るのを感じた。背中に彫った女神と、隣にいる女神。この二人に挟まれた自分はもっと強くなれる。
「最高の名前だ」
 三沢はもう一度、強く真理亜を抱いた。

 現最強のチャンピオン青木悟と三沢の大晦日のタイトルマッチは流れた。
 団体を移籍して連勝中の三沢と青木が戦うのは直前まで既定路線だったが、折しも世界的柔術家、300戦無敗という伝説を持つフラオ・グレイシーが引退を表明し、現ミドル級世界最強を謳われる青木悟を引退試合の相手に指名したのだ。
 大晦日の興業は今や格闘技団体にとっては大きな意味を持つ。ゴールデンタイムに数時間かけて放送され視聴率がとれれば、莫大な放映権とスポンサー料が見込める。格闘技ブームが下火の中で知名度の拡大にも一役買うことができる。
 順調なチャンピオンロードを歩んでいた三沢陣営は肩透かしを食らった格好になった。特に、青木対策を早々に練っていた渋川は怒りを露わにした。
「ふざけおって。筋が通っておらん。なんなら海外の団体に移籍するか」
 スポーツ新聞の記者に洩らした不満は大々的に報じられ、三沢陣営と団体の確執が取り立たされたが、団体代表者が直々にジムに謝罪に来た事で一応の終息を見た。しかし、渋川はそれでも納得がいかない様子だった。
「あんなものパフォーマンスだ。視聴率に囚われおって。今さら、化石のような柔術家との試合などおもしろくもないわ」
 ここ数カ月、渋川が練習生達に課す練習の厳しさは明らかに試合を飛ばされたフラストレーションからきていた。
 そんな中で、三沢本人は平静を保っていた。選手にとって予定されていた試合を飛ばされる事はコンディションに大きな影響を及ぼす。代替えの試合も決まらず、次の試合までは半年近くブランクが空く事が決定的だった。
 パンドラスで一試合だけ復帰する案もでたが、怪我をする可能性を考慮してその案は立ち消えた。並の選手ならモチベーションが減退してもおかしくない状況だった。
 しかし三沢はいつものように厳しい練習の反復を繰り返し、意欲を下げることもなく変わらない日々を送っていた。
 業界で試合を飛ばされる事はよくある。何にしても、イベントに客が入らなければ所属している格闘家はファイトマネーを手にできないし、話題性がないのは自分の実力と人気がまだ足りないからであると理解できた。
 もちろん、そう考えなければモチベーションの維持が難しいという面もあったが、次にタイトルマッチをやる事は確約されていたし、決まってしまった事は仕方がない。
 プロレスから総合に転身する時にも役に立った切り替えの早さが彼に妙な焦燥を残さなかった。
そして何よりも、彼の隣には真理亜がいた。別段、彼が真理亜に溺れていたわけではない。三沢にとっては素人で惚れた女というのは初めてであったが、その身体、愛欲に全てを奪われた様な妙な脱力はなかった。
 頻繁に会うわけではない。しかし、会えば安らぎ、満たされ、身体が軽くなり、余計な事を考えずに練習に臨めた。何よりも、彼の中に今までにない様な自信が芽生えていた。 
 それは背中に彫った刺青と同じ、真理亜という彼女の名前が彼に女神がついているという幻想を抱かせたせいもあったかもしれない。しかし、格闘技しかなかった彼の心の中に、背負いし何かが生まれた事が大きく作用していた。
 戦う事しか知らない洗練な魂。それは他に考える余地もなく戦う事だけに打ち込めるという事実から最強の印象を与えるかもしれない。しかし、その拳に宿るものは何か?いや、そこには何も宿らない。清潔さだけがある拳は、切迫する状況の中で何かを与えてくれる事はない。
 今までは三沢の拳もそれに近いものがあった。格闘技一筋の彼の拳はある意味では強く、ある意味では軟だった。しかし、真理亜と出会ってからそれは変わった。
 結局は、格闘技は人間と人間の戦いだ。背中に様々なものを背負い、人を愛する事によって生まれた弱さを知り、拳を繰り出す。その思いの強さが、一瞬の刹那に大きな差を生み、勝敗を左右する。様々な業を背負いし拳こそ、本当の拳なのだ。
 真理亜と出会い、三沢はそれを手に入れた。特別に彼女の為になど幼稚な発想を持ったわけではない。しかし、背負ったものと、受け入れた自分の弱さが彼の拳の重みを増し、自信を満たしていたのだ。
「郷野。俺が前にお前に聞いた事を憶えてるか?」
「なんでしたっけ?」
「嫁に惚れる前と、惚れた後。どっちの自分が強いか」
「ああ」
 郷野は曖昧に返事を返した。三沢はその反応を無視して続ける。
「俺は真理亜に惚れた今の方が強いぞ」
「何言ってるんですか三沢さん。三沢はさんは今も昔も強いですよ。俺と違って」
 漲る力と湧き上がる自信をすぐに誰かにぶつけたい衝動を体現するように、三沢は鏡に映った自分に拳を翳した。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。