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小説「鎗ヶ崎の交差点」⑦

 知花は自分の話をあまりしたがらなかった。考えてみれば僕が彼女の家族構成を知ったのは再会してからだった。
 仕事の話をするのも稀だった。一度、君の写真を見たい、と言ったことがある。しかし「見せるようなものじゃないから」とどこか自信がなさそうに言い、決して見せてはくれなかった。そんな時だけは知花も自分と同い年の女性であると安心できた。きっとこの頃の知花も自分のしていることに自信があったわけではなかったのだろう。
 お互いに背伸びをしながらの関係は最初はとても上手くいっていた。違う方向を向きながらも僕らは同類だったのだ。知花は大人の男性に、僕は知花に背伸びをして。
 やがて友人達に知花を紹介するようにもなった。僕は美しい知花を皆に紹介できる瞬間がとても誇らしかった。
 東横線が乗り入れる都立大学駅は僕の生まれ育った、いわゆる地元だった。その日、僕は友人の田中に知花を紹介した。
 田中は小学校と中学校の同級生だった。彼は高校を卒業すると家のピアノ教室を手伝い貯めた資金で地元にバーをかまえた。地元に店を開き、友人達と過ごせる場所を作るのが彼の夢だった。
「へえ、モデルなんだ。凄いな」
 知花と僕は店のカウンター席に座った。店内はテーブル席もあり、奥にはピアノが置いてあった。
「そんなことないですよ。それよりもピアノ弾けるんですか?」
 奥にあるピアノを見つけて知花が言った。
「ああ。まあ。今は教えている程度だけど。そうそう、昔はこいつも弾けたんですよ」
「え?そうなの?」
 ピアノを習っていたのは小学生の高学年までだった。情報が古すぎるが、田中なりに僕を持ち上げようとしたのだろう。
「小学生の時の話だからもう弾けないよ。田中のお袋さんに教えてもらってたんだ」
「こいつ下手くそでね、すぐやめたんだよ」
「うるさいよ」
 知花が僕らのやり取りを見て笑った。その笑顔は、いつも六本木や渋谷で大人の男達の前で見せるものより自然なような気がした。この店には同い年しかいない。その気楽さが彼女の等身大の笑顔を引き出したのだろう。僕はその笑顔も好きだった。
「ピアノの才能なかったんだね。DJの才能はあるのに」
「才能なんてあるのかなあ」
「あるよきっと」
 知花に言われると、根拠のない自信に後ろ盾がついたように気がした。
「知花ちゃんは楽器は?」
 すると知花が照れながら言った。
「実は、吹奏楽部でクラリネットやってたの」
「そうなんだ。マニアックだね」
「自分でもなんでクラリネット選んだのかよくわからないんだけどね」
「今も吹ける?」
「吹けない。もう忘れちゃった」
「もったいないなあ」
「うん。私もそう思う。今でも続けていたら人生変わってたかも」
 僕には知花が今の人生を変える必要があるとは思えなかった。美しく若い彼女ならなんだってできるだろう。僕では与えられないものを全て手に入れることも。
「知花ちゃんは出身はどこなの?」
「彼女も目黒区出身なんだんよ」
「そうなんだ。でも私立?見かけたことないもんね。連合体育大会とかでも」
「何それ?」
「区の中学校が集まってやる運動会みたいなもん」
「そんなのあったんだ。私は私立だったから、そう言うの羨ましいな。しかも地元で同級生がお店やってるとかいいよね」
「まあ、田中は地元好きすぎるからね。でも店出すって言った時は驚いたよ。しかも都立大なんて東横線の中でも人がいない駅だしさ」
「俺の本業は実家のピアノ教室だから。この店は完全な趣味。だから売り上げは度外視できるし、まあ、こうやって友達に会えるから楽しいんだよ。知花ちゃんも気が向いたら来てね。中目黒からだとちょっと遠いけど」
「うん。ありがとう」
「そうだ。田中、たまにはピアノ聴かせてくれよ。こいつジャズ弾けるんだよ」
「今日は他に客もいないし弾くか」
 知花が嬉しそうに拍手をした。田中はピアノの前に座ると、エルビスの「ラブミーテンダー」をジャズアレンジして弾いた。僕らはピアノの音色に耳を澄ませた。
やがて、知花が僕の肩に頭を乗せた。ピアノの音に紛れて、僕は彼女に家に行っていいかと聞いた。彼女ははにかんで頷いた。その瞬間に僕はこのまま時が止まればいいと願った。
 田中のピアノが終わると、僕らは拍手をして迎えた。すると、知花の携帯が鳴った。
「あ、ごめん」
 知花は携帯の液晶を見ると慌てて外に出た。すでに深夜十二時を過ぎていた。一体誰からだろうと気になりながらも、僕は平静を装った。そして知花は五分ほどして戻ってくると言った。
「ごめん。私、行かなきゃ。急に仕事が入ったから」
「え?これから?送ろうか」
「大丈夫。ゆっくりしてて。それじゃ」
 知花は店を出てタクシーに乗って行ってしまった。取り残された僕に田中が言った。
「お前、振りまわされてるなあ」
「うるせーよ」
 急に誰かから連絡がきて行ってしまうことは多々あった。僕はそのたびに取り残されたが、それが本当に仕事なのかは疑わしかった。いくら業界を知らない僕でも、夜中にモデルの仕事がないのはわかる。
 佐々木に会いに行っているのか。あるいは他の誰かなのか。彼女がいなくなる度に、僕はその先にある煌びやかな世界や大人達を想像して落胆していた。「行くなよ」と言える自信があったらどれだけよかっただろうか。
成功すると言う根拠のない自信は持ちながらも、自分の不甲斐ない状況は理解していた。
 実家暮らして、フリーターでDJと言っているがクラブでレギュラーを持っているわけでもない。
 そんな自分が華やかな世界にいる彼女にとやかく言える立場ではないし、僕らはしっかりと付き合っているわけでもなかった。自分の自信のなさと、関係の曖昧さにいつも僕は右往左往していたのを憶えている。
 もちろん言葉にすることで全ての関係が成立するわけではないが、僕らに関して言えば、実は最初から最後まで恋人ではなかったような気もしてくる。結局、二回の出会いの中で知花が僕をどう想っていたのかはわからない。今ではもう聞く術もない。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。