KISSは拳に 第9話 三沢真也 対 エメリア・メルコフ

 メルコフとの試合の日。三沢陣営はゆっくりと会場入りした。
「ちょうど今、お前の試合の三つ前じゃ」
 渋川は時計を見ながら満足そうに頷いた。前回の失敗が相当納得いかなかったのだろう。何度も会場に置いた練習生と携帯で連絡を取り合いイベントの進行状況を確認していた。開会式を欠席すると言った時、団体は文句を言ったが渋川が押し切った。
「とりあえず着替えてきます」
 三沢は控室のカーテンを閉めた。いつもなら男だらけの控室でそのまま着替えるところだったか今回はそうしなかった。それには理由があった。鶴田に連絡を取ろうと思っていたからだ。
 三日前、記者会見が開かれた。三沢とメルコフは初めて顔を合わせて横並びに座り、記者の質問に答えた。
 メルコフの身体は弾力のある筋肉に覆われていた。若い頃軍隊で習ったというコマンドサンボを軸とし、最近ではヨガの呼吸法を学んでいると言う。ロシア人らしく肌は白くもっちりとしていたが、瞳は冷たく表情も変わらず何を考えているか計り知れなかった。
 しかし、どこか不思議な哀愁が漂っているのを三沢は感じた。彼の試合は何度も映像で見ていた。無表情から繰り出されるパンチはどの体勢からでも破壊力があり、必殺のロシアンフックはマシーンの様に冷徹に相手の意識を遮断した。
 試合後も飛び跳ねて喜ぶ事はなかった。その映像からは感情を読み取る事はできなかった。
 実際に対峙したメルコフからは刺す様なロシアの冬の寒さを感じなかった。どこか悲しげな、やりきれない感情が彼の身体から流れていた。
 記者会見が始まると真っ先にメルコフに質問が集中した。無論、それは数年前の事故についての事だった。
「あなたの拳は凶器です。相手を殺す拳を持った感想は?」
「今でも殺す気で試合をやっているのですか?」
「鶴田選手の墓参りには行きましたか?」
 矢継ぎ早に繰り出される辛辣な質問にメルコフはしばらく答えなかった。記者一人ひとりを無感情な瞳で見つめているだけだった。
 やがて、何も答えないメルコフに気付くと、会見場に静寂が訪れた。冷たい瞳に射抜かれると記者達は身体を硬直させていた。そしてやっとメルコフが口を開いた。
「私の拳は確かに凶器かもしれない。しかし、それは隣の三沢の拳も同等だ。それから、私は完全な殺意を持って試合に臨んだ事はない。私達がリングで行うものにはルールもレフリーもいる。そして、私は自分の試合の後、鶴田が亡くなった事を悲しく思っている。責任の一端は私にないとは言わない。家族の方にもしっかりと謝りたい。来日した目的の一つはそれでもある。あの試合の後、私はすぐに帰国してしまっていた。それが心残りだった」
(誠実な男だ)
 三沢はメルコフに尊敬の念を抱いた。映像から感じたイメージも覆った。彼はマシーンなどではない。紳士的な感情を持った普通の人間だと。そして、彼が醸し出す悲しみの意味も理解できた。
 「人殺し」その異名に彼は苦しんでいたのだ。軍隊上がりのロシア人。その経歴も相まって、いつからか彼は森に住む凶暴な人食い熊に仕立てられた。しかし、熊は決して人を常食にしているわけではない。たまたまそこに人がいたから食ったに過ぎない。普段は花を愛で、空を仰ぎ、そして子供の親かもしれない。
 メルコフは日本で懺悔をし、その異名を取り除きにきたのかもしれないと思った。殺した人間の魂の宿る拳をいつまでも振り続けるのはとても辛いことだ。意図的に殺したわけではない事をわかって欲しいのだと。
通訳がメルコフの言葉を訳し終えると、三沢はおもむろにマイクをとった。
「みなさん。当日、俺らの試合の前にリングで黙とうを捧るなんてどうかな?」
通訳がメルコフに三沢の発言を訳した。すると、初めてメルコフの瞳に生気が宿った。
「OK」
 指を立てたメルコフは、この時に一介の格闘家に戻れたのかもしれない。三沢は堅くそう信じた。

 携帯から鶴田の番号を呼び出した。記者会見場にも鶴田は現れなかった。彼女の中にはまだマルコフに対する複雑な思いがあるのだろう。
 呼び出しボタンを押すとコール音が鳴る前に鶴田の声が聞こえた。
「はい」
 どこか、緊張感のある声だと思った。
「よう。久しぶりだな。元気か?」
「ええ」
「今日は会場に来ているのか?」
 受話器からは何の声も返ってこない。
「できれば見に来い。安心しろ。俺はあんたのオヤジの仇とか、あんたの為にとか思って試合なんかしない。俺は俺の為に試合をする。だけど、できればあんたに見て欲しいんだ。この試合が終わって、俺が勝ったあと、何を思うかはあんたの自由だ。だけど、俺は勝ったらあんたを抱く」
「やっぱり勝手ね。格闘家は。それがあなたの緊急の用なの?」
「そうだ」
 また、無言になった。しかし彼女は笑っていると三沢は思った。試合前に、あの笑顔を想像できただけで満足だった。そして、電話を切った。
 リングに上がるとゴングが三回鳴り響き照明が暗転した。
「ただいまより、鶴田孝典選手への黙祷を行います。皆さまご起立ください」
 レフリーがアナウンスすると、武道館から音が一切消えた。メルコフも見よう見まねで瞳を閉じた。
 三沢は瞳を閉じる間際、リングサイドに鶴田の姿を見つけた。その瞬間、二人の視線が交差した。暗闇の中で、しっかりと二人は見つめ合った。やがて、鶴田の瞳から涙が流れるのを見た。
 三沢がその涙の意味をしっかりと理解していたわけではない。彼女が父親に対して、メルコフに対してどんな想いを持っていたかは聞いてもいないし計りかねる。
 しかし、その涙は悲しみだけが含まれているようには思えなかった。何かが浄化されてゆくような、武道館の天井のタマネギを超えて、彼女の想いが飛散してゆくのを見た気がした。どこか清々しい風が三沢の心に吹いた。
 照明が点灯した。逆コーナーを見ると、そこにもすっきりとした表情を浮かべた男が立っていた。メルコフだ。彼の拳に人殺しの異名はもうない。二人はゆっくりと近づきグローブを合わせた。
 試合開始のゴングが鳴り響く。互いにパンチもグランドも磨き上げたトータルファイターだ。しかし、試合の中でパンチの応酬の合間にタックルを挟む事はしなかった。どこか清々しい心の二人は、自然に身を任せるままスタンドでの勝負を選んだ。殴り合いだ。
「三沢!今じゃ!タックルじゃ!」
 渋川の声が届いても、三沢はタックルをしなかった。互いに何発ものジャブを繰り出し距離を計る。伏線のローキックも時折り混ぜ込む。
 しかし、パンチで決める事しか考えていない。何かを理解し合った者との殴り合いは爽快で、興奮と喜びが沸き上がってくる。
 メルコフのアッパーが三沢の顎を捉えた。少しよろめいた三沢の姿に会場がどよめく。三沢は足を踏ん張って堪える。メルコフがすかさずラッシュを打ちこんでくる。鉛の様に堅く、重い拳だ。
 次第にロープ際に追い込まれる。しかし、どうにか拳を掻い潜り三沢はメルコフの後ろに回り込んだ。今度はメルコフがロープ背負った。
 ガードの上からの拳だったが、三沢の腕には鈍痛が残っていた。しかし、構わずボディを打ちこみ、お返しのアッパーとのコンビネーションを繰り出す。今度はメルコフの腰が下がる。  
 一気にラッシュに入ろうとした刹那、三沢はある予感に気付き、左ストレートを引っ込めそれより角度があり相手のへの距離がない右フックを繰り出した。するとカウンターの形になり、メルコフの顎先を三沢の拳が撃ち抜いた。
白目を剥き倒れ込もうとするメルコフは右のロシアンフックを空振りしていた。死角からのロシア人特有の大振りなパンチだ。
 そしてメルコフが膝をついた瞬間、レフリーが割って入った。一瞬で勝負が決まった。
三沢の身体には不思議な感覚が宿っていた。自然の勘に助けられた。あのまま左ストレートを出していたら顎先を射抜かれていたのは自分の方だっただろう。何かに導かれる様に拳が動いた。こんな感覚は初めてだった。
「勝者、三沢真也!」
 大歓声が武道館を包み込む。三沢は手を上げてリングの四方をまわって応える。
「ヘイ!」
 すると、意識を取り戻したメルコフがセコンドの肩を借りて近づいてきた。通訳も一緒だ。
「おめでとう。君の勝ちだ。そして、君と試合ができた事に感謝している」
 三沢は恥ずかしそうに礼を返すと、通訳に告げた。
「ラッキーパンチだ。たまたまだよ」
 あの一瞬は運であると自分でも認めざる得ないと思った。すると、メルコフは冷たい表情を崩して笑った。
「運も実力のうちさ。重ねた練習が運を引き寄せる。もしかしたら、鶴田が見ていたのかもしれないがね」
 二人は健闘を湛え抱き合った。そこには何のしがらみもない、ただの男の清冽な魂があった。
 ○三沢真也 対 ●エメリア・メルコフ 1R 1分30秒 KO

 三沢真也 18戦 16勝 2敗 16 KO

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。