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音楽好きに読んで欲しい記事

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記事一覧

クラシックやジャズが「わからない」という意見に対する「わかる/わからない論争」について

いきなりですが、以下をお読みください。 上記の作品は、有名な漢詩です。 これを読んで、どう感じますか? 「どう感じるかと言われても・・・」 「・・・“わからない”」 そう思いませんでしたか? では、今度はたとえば、漢文のおもしろさを知っている側になったとして考えてみてください。「漢文の鑑賞をもっと広めたい、漢詩の世界を伝えたい!」という場合、 「漢文は難しくてわからない」という学習者側の意見に対し 「まずは読み方、読むために必要な書き下しの方法や、押韻など使わ

音楽ジャンルを「商業的/芸術的」「低俗/高級」「幼稚/精巧」というレッテルで判断できるのか。

いつの時代も一般的感覚として、「権威側」に関連する音楽は「仮想敵」であり、「被支配者側」に属する文化は我々の味方であり大切にされるべきだ、という感覚がある。そのような暗黙の前提により論が展開される音楽批判が非常に多いと思う。 しかし、そのような価値判断は果たして本当に正しいのだろうか。「卑劣な権威側に牙を剥く正義の市民側」というスタンスの批評が、逆に差別的な視線へと繋がってはいないだろうか。 クラシック音楽史では、次のような捉え方が一般的である。 と。 しかし、クラシ

「西洋クラシック至上主義 vs 文化相対主義」と「ポピュラー音楽」

つい最近まで、学問において「音楽」といえばそれは当然「西洋クラシック音楽」のことを指していました。音楽を取り扱う専門家は、言及対象としてクラシックのみを対象とすることが自明の理でした。音楽の専門家にとってクラシック外の分野は眼中になく、卑俗で扱うに値しない対象外のものだとされたり、批評対象になった場合でもクラシック美学のルール・基準でのみ良し悪しが判断されるという、価値の押し付けがあったのです。 しかし、21世紀に入り、これが「西洋中心主義」だったとしてようやく批判されつつ

「演歌=日本の心」が嘘なのは十分解ったよ。でも「演歌は洋楽だ」「邦ロックを邦楽と呼ぶな」でいいの? ・・・んなわけねーだろ。

演歌と言えば、日本にずっと昔からあるような、ある種の伝統芸能のようなジャンルのイメージとして捉えられていました。 「演歌は日本の心」 というキャッチフレーズは、あらゆる場所で用いられて常套句として通用してきました。 しかし、日本の音楽の歴史をよく紐解いてみると、演歌という音楽ジャンルは伝統的なものでは決してなく、1960~70年代という限定的な時期に流行した、極めて新しいジャンルだということが分かってきます。 この事実は近年になって指摘されるようになり、一部の音楽ファ

にほんのうた⸺音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史/みの

音楽評論家/音楽系YouTuber・みの氏(みのミュージック)による新著『にほんのうた⸺音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』が、2024年03月04日に発売になりました。帯には「縄文楽器から初音ミクまで」と書いてあるとおり、日本の音楽史を概観した内容になります。 当noteではこれまで、クラシック音楽史と各ポピュラー音楽史を接続した西洋音楽史を記述してきましたが、その延長で日本の音楽史についても勉強を進めているところでした。そのため、問題意識・興味関心・先行文献などがぴった

「クラシック史」と「ポピュラー史」の位置付けと捉え方

僕のnoteを「クラシック史とポピュラー史をつなげてみた」という図表と記事シリーズで知っていただいた方が多いと思いますが、 ひとことで「クラシック史とポピュラー史をつなげる」と言っても、実際に僕がやっていったプロセスというのは、単に「2つのものを接続する」というような単純作業ではありません。 これまで、各時代の音楽史を紹介した記事内では、その都度、それぞれのジャンルに存在する史観・立ち位置を「相対化」していく書き方をしたつもりですし、「ジャンルごとの横の流れではなく、同時

バズって感じたこと。音楽好きの人々は「音楽史」に何を求める?

昨年末、「クラシック音楽史とポピュラー音楽史を繋げてみた」というツイートを図解年表付きで投稿したところ、ありがたいことに1万RT/4万いいねを超えるバズをいただきました。 その後、図表は何度か改訂いたしまして、現在、下記の記事で最新版PDFを更新・配布しています。 このツイートが広まったおかげで様々なコメントや引用RTも頂き、興味深く拝見いたしました。今回は、そのような様々な反応から感じたことや気づきを綴りつつ、改めて僕がこのような図を作った意図・問題意識と、それが達成で

音楽の「考えるな、感じろ」な信仰って、あるよね

僕は日々、音楽についていろいろ小難しく考えたり、悩んだり、そういうことが多い。 それに対して、「つべこべ考えるな!」というような風潮が強い気がする。 雑誌やネット記事の音楽評論、専門家のSNSに対して、「難しいことはわからないけど、楽しく聴いてるんだからそれでいいじゃん」というようなコメントが溢れたり。 というようなスローガンは 擦り切れるほど使われてきているし。 それに対して、僕はしばしば、 と思うことがある。 以前の記事にも書いたけど、僕は を強制させられた

【脱・二項対立】音楽の〈ハイカルチャー/メインカルチャー/サブカルチャー〉三つ巴モデルを考えてみる

音楽にはさまざまなジャンルがあります。そしてもちろん、それらの音楽に絶対的な優劣はありません。『みんな違って、みんな良い』が理想だし、表面上はみんなそう掲げるでしょう。しかし実際のところは、みんな各立場それぞれ何か不満や問題意識を持っていて『良い音楽はコレだ』『世に知られているコレは悪い音楽だ』『もっと知られるべき音楽がある』というふうに音楽の善悪を決めつけていることが多いように感じます。 ちなみに、そんな時に『すべての音楽が好きだよ、対立の必要なんてない』なんて言う人は、

配信ライブはリアルライブの代わりではない。

コロナ禍においてミュージシャン達は皆、それまで当たり前に開催できていた表現の場を奪われてしまいました。 特に2020年春、コロナ禍の最初期にクラスターが発生した場所が「ライブハウス」であると大々的に報道されてしまったことをきっかけに、音楽という文化全体がまるで社会悪のような位置付けとなってしまいました。 この状況に対し、業界全体で感染対策に尽力しながら公演再開の道を模索してきましたが、ソーシャルディスタンスなどの面を鑑みても動員数や演出などで考慮すべき課題は膨大で、社会が

絶対音感の僕が、歌詞を聴けるようになった日。

僕は小さい頃からピアノとエレクトーンに触れて育った。 物心ついたときから音楽がそこにあり、絶対音感を持って育った僕は、音楽を"歌詞で聴く"という感覚がまったく無かった。 習い事の特性上、歌の無いインストゥルメンタル音楽に触れることのほうが多かったし、歌モノを聞いたとしても、まずメロディとコードが頭に入ってきて好みを判断していたように思う(その感覚を正確に言葉で表すのも難しいけど)。 中学受験をして、小学校までとは違う新たな同級生達に自己紹介をしたり、音楽の話をしていくう

「浅さ」と「深さ」の狭間で

普段、芸術に関して散々小難しいことをグチグチと書いているクセに(この投稿自体もそういう文体で書いているクセに)、難しい表現や深そうな比喩に遭遇すると、基本的に僕はそれを読解することができない。共感することができない。「もったいぶって書いているように見えるけど、何言ってんだこの人?」と感じてしまう。そして、そのことに落ち込む。 ポエティックな表現が悪なわけではなく、受け取る側である僕の感性の問題なのだ。たぶんそういう表現には、複雑な感情や闇が内包されていて、たぶんそれは美しい

どんな音楽も、みんな違ってみんな良い。

『みんな違ってみんな良い。』僕のこれまでのnoteで、音楽について考えるにあたって何度も俎上に載せ、疑問視してきたキャッチコピーです。 一貫して主張してきたのは、これはもちろん理想であり、前提条件であり、最終目標であるが、何の考え無しにこれを口にできるほど簡単な言葉ではなく、単にハッピー志向で「みんな違って、みんな良い」というのは安直すぎる。ということでした。 「良い音楽」の絶対条件なんて決められない。だが、みんなそれぞれ良い音楽や悪い音楽というものを暗黙下で決めている。

話題のChatGPT先生に音楽史を解説していただきました。が・・・

ChatGPT先生に音楽史について聞いてみました。 当noteの過去記事や他の様々な情報と照らし合わせながら、この出力結果の音楽史の整合性はどの程度か、この物語の視点がどのようなものなのか、皆様も是非考えてみると、おもしろいかもしれません。 はい、いかにも「優等生」的なまとまり方で、一般常識的な基礎知識として非常に妥当なまとまり方だと思います。典型的なクラシック中心視点であり、やはり多くの学術書と同じく、単に「音楽の歴史」とだけ言えばそれは自動的に「西洋芸術音楽史」のこと