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母との会話~イヤミスとの共通点

千葉県にある実家にいたころ、夏は梨をたくさん食べました。
父が梨がよく採れる鎌ヶ谷あたりの販売所でよく梨を買ってきました。小ぶりの梨で甘くてみずみずしく、水分代わりでした。

結婚してから、千葉県産の美味しい梨は義実家に毎年お中元として贈られるようになりました。うちには9月の半ば「かおり」という梨の変わり種が送られてきます。「かおり」はかなり大ぶりの梨で味は小ぶりのより薄いですが、その名の通り香りがよくやはり食べると水分があっておなかがタポタポになります。めずらしくて美味しいのですが、わたしは小ぶりのほうが個数もあるし好きで何度かそれとなく母に伝えていますが、毎年「かおり」が届きます。

今年も「かおり」がやってきました。
夜、家事が落ち着いたとき、母に電話しました。
かおりはとても大きいので大きな段ボールに七個。ひとつを近所にある義実家にもうひとつは一緒に音読の仕事をしているしゅりさんにおすそ分けすると伝えました。

母はわたしの新しい仕事について、あまり興味を持ちません。
妹のように企業に勤めてないフリーランスはわかりにくいのかもしれません。茶道を教えている母のところには母世代の人がたくさん集まります。その方々と古典音読出来たらいいのでは、ひとつの親孝行になるのではと日々考えていて、勇気を出して母に音読を勧めてみました。母は歌が好きなので絶対好きになるとも思い、
わたし「お母さん音読いいと思うのだけど、歌うの好きだし」
母「お母さんまたコーラス始めたのよ、楽しいのよ」
わたし「そうなんだ!まさかマスクして歌っているんじゃないでしょうね」
と冗談。
母「マスクしたまま歌っているわよ」
え!マジで!?こりゃ音読厳しいな。母からも音読についてのコメントはゼロ。

わたし「お母さん、この間持って行った麹納豆食べた?美味しかった?」
母「なんだかもさもさしていて、よくわからなかったわ、固いの入っているし。」
わたし「麹が柔らかくなる前に食べたのだね」
母「悪くなるといけないと思って」
わたし「だから1か月くらい持つと言ったでしょ」
母「そうだっけ、そもそも納豆が好きじゃないのよ」

いろんな話題で会話を続けましたが、こんな調子でわたしが話し出したことが望むかたちで母に届くことはなく、20分ほどして電話を切ったとき、何とも言えないもやもやが残りました。

母は言葉に厳しくて、些細な表現でも逐一指摘されながらわたしは育ちました。言葉は伝達手段、それゆえ受け取る側の機微も考えるようになり、今に至っていると思っています。

会話を終えて、自分が母に必要なことを満たしていないのだな、というのを再認識。

なんだろうなあ、何を言ってもそらしてくるけど、母にとってわたしってライバルなのだろうか、かけがいのない子どもなのは確かなのだろうけど。
それかわたしが甘ったれで「お母さんは○○してくれない」と思っているのかな。

あまりの後味の悪さに、「イヤミス」という言葉を思い出しました。湊かなえさんの作品のような読後感の悪いミステリー。

NVCのセッションで聴いたことを思い出しました。
母から届く言葉はわたしが言わせている、自分に必要なことは周りの人がドラマのセリフみたいに伝えてくれる。
色々言われたことを気にしちゃう自信のなさ、これが克服されるまでこの事態は続くのかもしれない。自分の言うことを肯定してほしいというわがままを指摘されているのかもしれない。母だって完璧でないことをわかれよと言うことなのかもしれない。

まだできることはある。
今でも母の教えは鮮やかによみがえり、母なしには自分の今を語れません。とても感謝しているけど、今の状態では見せたい自分が母に見えない。

このもやもやは必要なことと捉え、明日からまたイヤミスに挑んでいこう。


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