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ある動画について

序文

 YouTube。我々にとってごく当たり前となったSNSの代表だが、一つの疑問が頭に舞い降りた。

「YouTubeで一番すごい動画って何だろう」


 ものすごく漠然としていて、どうでもいい疑問だが許してほしい。本当にどうでもいい。ふと思ったのだから仕方がない。もちろん、これは再生数や高評価、急上昇ランキングのような指標に左右されない問題である。私個人の主観的な指標による。

 そこからいくつかの動画を思い浮かべた。ジャンルも量も広大で多岐にわたる。とりあえず好きな動画だ……ヒカキンが氷風呂でアイスを食べる動画はどうだ……あのアーティストのMVやライブ映像は……お笑い芸人やYouTuberの動画か……あるいは海外の有名な動画、もっと言えば一番最初に投稿されたあの動画とか……



いくつか浮かんだが、どれもパッとしなかった。主観的すぎて客観性に欠けるというのもある。逆に私の中の客観性が強すぎて、主観的でないというのもある。ではその客観性とは何なんだ。というかそんなんいるか?そんな風にどうでもいいことの中でさらにどうでも良さを加速させていると、今度は疑問でも何でもない、Twitterを日々見ていて思ったことが頭に去来した。

「死にたい」的ないわゆる希死念慮を吐露したツイートが多すぎる。

 これは単に、私がフォローしている人たちにそういう人が多いというだけの話なのだが、見ていてどうもやりきれなく、どうにかしてやりたいという想いからまろびでたことだ。しかし、吐露している人たちが実際には死ぬことはなく、赤の他人であるから別にどうとでも良いことで、極論を言えば私には無関係である。しかし、やはりどこかそのツイート群が、死に至る行為までに書き連ねられた一種のダイイングメッセージのように見えてきて、私の心中にまとわりついていた。また、それ以前に私自身も希死念慮を日々抱く人間であり、よくいえば理解者といえる。発信されるネガティブな呟きに深い共感を寄せる、交信めいたものを夢見ていたのかもしれない。

 と、同時にある一本の動画が私の脳内にヒットした。ここでようやく当初の疑問が解決した。唐突すぎる。大まかには、私が思うYouTubeで一番すごい動画とTwitterに蔓延る希死念慮が繋がったということだ。もっと具体的にいえば、その動画によってTwitterの希死念慮が幾らか和らぐかもしれない、死に向かうその手を止めるのかもしれないということだ。

ここまで書いて、恥ずかしくなってきた。余計なお世話だと言われるだろうけど、まぁ書きます。

本文?

本筋とは関係のないことだが、その動画は、無断転載の動画であり、ネットにおける無断転載はある種の暴力性を孕むものだと思っている。デジタルネイティブ?のような私世代くらいの人間にとっては、無断転載コンテンツはごく当たり前のものとして存在し、時には許容することもあれば、時には断罪した。やがて社会問題となり、メディアを賑わしたこともあった。
YouTubeという動画メディアと無断転載の相性は最高で最悪だった。私はもちろん見たこともあるし、今もなお見ているものもある。法律と社会正義に則った「無断転載は悪」という意識を脳裏に焼き付けながら。

その動画はあるテレビ番組?の無断転載だ。全体の一部分で、動画はその途中から始まっている。古い投稿時期だからか、再生数も多い。恐らく見たことのある人もいるだろう。ここまで引っ張っておいて悪いが、有名な動画なのかもしれない。そしてまた、断っておくことがある。この動画は逆に見る人の希死念慮を増やすこともあるかもしれない。ただ、私個人としては、ある種の救いになる人が多いと感じた。

見てから読むのか、読んでから見るのかわからないがざっと概要のようなものを書く。

この動画の主要な人物である1人の男は、間寛平というお笑い芸人で、吉本新喜劇の大スターとして関西で名を知られている。若い自分にとっても、「なめなめくじくじなめくじくじ」や「かいーの」といったギャグは印象に残っており、自分がお笑い好きなだけかもしれないが、関西芸人の上位に君臨しているといって差し支えないだろう。

彼は、あるときマラソンとヨットを使って世界一周する「アースマラソン」に挑戦する。結果をいえば成功、つまり走破し、2年1ヶ月もの歳月をかけて日本に帰国。その後も震災の復興激励のためのマラソンなどを行い、マラソンは彼の代名詞になった。この一連の流れには、マラソンで知名度であげようといったものはなく、あくまで彼の挑戦がなしたものである。

さて、問題の動画の概要はというと、そのアースマラソンの途中、アメリカでの走行中にこのマラソンの応援ソングを作ってくれた親友、忌野清志郎がガンの闘病の末亡くなり、その訃報を彼の妻(間寛平の妻)を通して彼に伝えられ、そのことを受けてひどく落胆し、人目を憚らず泣きじゃくるという内容である。

要は、ある人間が訃報に触れた瞬間を捉えたものであり、なかなかにショッキングな内容といえる。しかし、広大なYouTube、インターネットをくまなく探せば同様の状況を捉えた音声、動画、文章はありふれているだろう。ただ、この動画が他のものと違うと感じた部分は、泣きじゃくるその姿が悲しさだけではなく、希死念慮を抱えるわたしに生きる勇気を与えたからである。

ここにきてシンプルで月並みだが、悲嘆に暮れる彼を見たとき、どこか羨ましいと感じてしまった。また、亡くなった忌野清志郎に対しても、これほど泣いてくれる人がいることが何よりも嬉しいことだと感じてしまった。両者は、希死念慮とは全く関わりはなく、死んだ人間とその死に触れた人間がいるだけだ。それでも、何処か胸に響くものがあり、少なくとも私には希死念慮を和らげる効果があった。希死念慮を抱える一人一人には、それぞれ複雑な事情があり、固結びのようになったそれは脳を圧迫し、この動画では解けるようなことはないかもしれない。

だが、この動画、この文章を通してつまらない誰彼の希死念慮を和らげてやりたいと何となく思った。よくわからない内容だが、そういうことだ。もう自分で書いていてよくわからん。恐らくまとまった文章にはなっていない。許してほしい。動画を見ればわかるが、彼はマラソンによってかなり疲弊していて、そこに飛び込んできたのが親友の訃報であり、まさに泣きっ面に蜂といえる。通常ではない状況で作り出されたこの映像は、無断転載とランダム性という暴力によって私に届けられた。

無断転載というか、あらゆる情報は須く加害である。この文章もそう。しかし時には、その加害性が優良に働くことがあると信じている。

以上、ようわからん文章でした。

#間寛平 #忌野清志郎  

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