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記憶について

小学校の時、学校の図書館にある伝記漫画を全て読んだ。ある程度の偉人のことは知り得たと謎の達成感があった。なんとなく、他の子らよりは知識があるのではないかという根拠のない自信もあった。しかし、今にしてみればそれは紛い物で、私はそれほど知識のある人間ではなかった。伝記漫画を読んだことによって得た知識も全てなくなった。頭の隅に断片となって転がっているだけで、トリビアの泉程度の知識である。

さて、ここまでの話は私の経験に基づく話である。記憶というものは残酷なもので時が経てばすり減っていき、自分の都合の良いように改変されていく。記憶が維持されることが決して良いことといえず、記憶が欠落していくことが悪いことともいえない。

いわば記憶は幼虫から蛹を通して成虫へと進化する、完全変態を遂げる昆虫のようなものだと私は考えている。
徐々に形態を変えることにより時間経過に応じた「適応」を行なっている。生物が生存できる理由の一つは適応であり、記憶もその例外ではないという考えだ。
生きていく上で様々な知識を得ながら、先の伝記漫画の知識のように過去の記憶は形を変えながら記憶量を減らしていく。

どこかの本で読んだことだが、蒸留酒を作るように頭の中で濾過装置を使い必要性のあるものを無意識に記憶し、必要性のないものを捨てている。それによってできた脳の空白に新たな知識を蓄え、また記憶の編集は行われていく。 

例えば、帰路に着く途中で老婆が犬の散歩をしているのを見たとき、そこでは老婆が必死で犬のフンの処理に励んでいたことや犬のどこか阿呆らしい顔つきが私の脳内に記憶されているとする。しかし、家に帰ってふとした時にそのことを思い出すと「犬の散歩をしていた老婆」というある意味記号のようなものに記憶体験が互換されており、詳細な情報はどこかへ消え失せている。
これあくまで一例である。そしてこれまでの全ての文章は実態でもあり、予想に過ぎないこともある。ここに書き連ねた文章でさえ記憶の濾過装置を通過しており、脳内ではもっと純度の濃いものを秘めていたのかもしれない。
記憶と文章の関係性は書くと長くなるのでそれはまた今度。
しかしながら、遠い記憶や思い出は曖昧だからこその魅力もあるのだろう。

#雑記 #記憶  

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