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うーんと昔の両親のこと。

昨日は、両親の結婚記念日だった。
父はもう他界したが、毎年母と姉と私で祝うことにしている。今年は父が大好きだった御寿司を出前してもらった。

今日は、両親の結婚に関して話そう。母から聞いた話なので、ウラは取れて居ない。父は何も語らず他界した。

母は、宮城県の小さな村にある農家の長女に生まれた。
きょうだいは、母も入れて7人。両親と祖父母も入れると11人という大家族の中で育った。
農作業に忙しい両親に代わって母は、家事を殆どひとりでこなした。小さな弟や妹の世話もしていたから、自由な時間などなかったと言う。 

村の世話役的存在に、「よさの婆さん」という人がいた。「よさの」さんの漢字は全く分からない。苗字なのか、名前なのかも知らない。お盆やお正月に、母の実家に滞在していると、よさの婆さんは、事あるごとに煙草をぷかぷか吹かし、ガラガラの声で叫ぶように、やって来た。身体中がヤニ臭かった。子供の私は、彼女がとても怖かった。いつも睨まれているような気がして、私はカエルのように固まっていた。睨んでいたわけではないだろう。もしかしたら、微笑んでくれたのかもしれない。
それも怖い。
私が小さい頃から、よさの婆さんは年寄りで、男か女かも分からなかった。
「婆さん」なんだから女性なんだけど、性別も年齢も、すっとばすくらいの圧倒的存在感があった。

その、よさの婆さん、母がはたちを過ぎたある日、唐突に見合い話を持ってきた。その日、母の両親(私の祖父母)は、何かの用事があり、家にはいなかった。

その見合いの内容が、普通ではなかった。

よさの婆さんが、ひと組のお見合いを予定したのだが、女性のほうが直前になってドタキャンしてきた。理由は言わなかったけど、まあイヤになったのだろう。しかし、お見合いは目前で、相手の男性は仕事を休んで東京から帰省している。今更「お相手は逃げました」なんて男性の顔をつぶすようなことは出来ない。急で申し訳ないが、その女性の代わりに、しれっとお見合いしてくれないだろうか?と言うお願いだった。

カタチだけの見合いでいいから。
気にいらなければ、断ってくれていいから。

よさの婆さんは、そう言ったそうだ。

冗談じゃない。お断りします!

が、普通の感情だろう。身代わりなどしたくない。

しかし、何をどう間違えたのか、母は、
わかりました。と、了解してしまった。

見合いの男性というよりも、村の長老の頼みを断るわけにはいかなかったのだろうか。
それとも、家のことばかりやらされて、外に出る自由もなかった毎日に、何か変化が欲しかったのだろうか。

魔がさしてしまったと言うより他にない。

とにもかくにも翌日、見合いは行われた。
見合いしてしまったら、その時代、その小さな村なら、結婚は決まったようなもの。
たぶん、母はそうともしらず、軽いノリだったのかもしれない。が、あれよあれよといううちに、結婚が現実となって押し寄せてきた。

洋裁が好きな母のために、祖父は山をひとつ売って、ミシンを嫁入り道具として買ってくれたそうだ。

山ひとつの値段もするミシン。
なのか、
ミシンほどの値段しかしない山。
なのか。わからないけど、このふたつのバランスが悪すぎて、悲しい。

かくして、身代わりのお見合いで結婚に至った相手が、私の父である。

父は、家庭を持つような性格ではなかった。
どこか別の星で生まれて、気まぐれに地球を旅して、帰り方が分からなくなり、そのまま仕方なく地球に住み着いた変わり者。という感じの人間だった。

自分以外のものに興味がない。誰かと会話を楽しむということがなく、全てが父ひとりで完結していた。
父から愛されていたという記憶がない。
休みの日は、一家団欒を楽しむということもなく、朝から釣りに出かけ、子供と遊ぶということもなかった。

お酒を飲むと、豹変した。
仕事で忘年会や送別会などの飲み会があると、恐ろしい虎になり帰ってきた。どこで何をしたのか、泥だらけの背広姿で、這いつくばるように玄関に倒れ込むようにして帰宅。よくまあ、帰ってこれたなあと思うくらいの酔いっぷり。
身ぐるみはがされて、帰宅したこともあった。前日、父に頼まれて母が、ワイシャツとカフスボタンを新調。それも見事に脱がされ、財布も抜き取られ、下着姿で、玄関前に転がっていたそうだ。

全く見たこともない人を家に連れてきたこともあった。おそらく、飲み屋で隣合わせた赤の他人で、知らぬ間に着いてきてしまったようだ。
母は何度も、酔った父に「こちらは、どなた?」と、聞いたが、父は「さあ」と、言ったきり眠ってしまった。

その日のことは、よく覚えている。
帰ってくださいと言えない母は、眠った父の代わりに、酒の相手をし、世間話に付き合い、いよいよ時計の針が真夜中を回る頃、丁重にお帰りいただいた。

翌朝、父は何も覚えていなかった。

そんな父との毎日に母は絶望し、姉の手を繋ぎ川のそばで途方に暮れることがあったと言う。
じゃあ、何故離婚しなかったのか?と私が訪ねたことがある。

「あんた達がいたからでしょう!」

が、答えだった。実家になど帰れない。しかし、母がひとりで働いて子供を育てていく自信もなかったそうだ。
私は母の自由を奪う存在だったのか。

父に対しても、私はがっかりさせる存在だった。

「俺はね、男の子供が欲しかったんだよ。一人目が生まれたとき、女で、まあ仕方ないか。と、次に期待した。で、いよいよ、二人目は男だろう!と、待っていたら、次も女!がっかりしたよー!」

目の前で、そう言われたことがある。
職場の人達が我が家に飲みに来た時だった。大人達は皆、黙って聞いていたが、父のセリフが強烈すぎて、前後のことは何も覚えていない。

愛されたことがない私は、愛しかたも分からない。
ずっと、独身なのは、そんな理由もあると思う。

2年前に、父が亡くなった時、母は父のわずかな持ち物を殆ど捨ててしまった。
悲しみよりも、憎しみのほうが勝ってしまったのだろうか。
子供というのは、どんな父親であっても、恋しいと思うものだ。暴言ばかり吐いているくせに、常に寂しそうな目をしていた父を、庇ってやれるのは私だけかもしれないと思っていたのも事実だ。

病室で父が最後に食べた食事のメニュー表を、私はこっそり持ち帰り、今も宝物にしている。





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