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イヴ・サンローラン:パリの人々(人へのオマージュI)

  パリはセーヌ川を境に大きく二つの地区に分かれていいます。セーヌ川の北側を“rive droite右岸”、南側を“rive gauche左岸”と呼んでいます。“右岸”は元々ブティックや劇場が多く、ブルジョワが集まる場所で、“左岸”はカフェで知識人や学生、芸術家が語り明かす中流階級が集まる場所でした。パリの人々はこの“右岸”と“左岸”にこだわりを持っていて、どちら側の人間なのかということをはっきりと区別していました。今でもそのなごりが残っています。

 当時、“右岸”の人たちが川を越える事はほとんどなかったそうです。そして、身分の格差意識は根強かった。特に「よそ者」に対して、厳しい視線が送られたと言います。“pied-noir”、パリの人々はフランスの植民地出身者をこう呼びました。直訳すると“黒い足”です。この言葉は黒人の足、労働で汚れた足、靴も履く事が出来ない貧困者の足を指しました。黒人でなくても、貧困者でなくても、植民地出身者に対してこの言葉は使われました。パリ市内、市外どちらにおいても、身を置く場所や階級、いわゆる“生まれ”が重視される時代でした。

 イヴ・サンローランは、かつてナポレオンに仕えた裕福な家の出ですが、北アフリカのアルジェリアで生まれ育ちました。彼もまた“pied-noir”に分けられたのです。サンローランを直接“pied-noir”と呼ぶ人はいなかったでしょう。でも、オートクチュールという上流階級者の世界に身を置くうえで、人々の階級や身分への意識を感じずにはいられなかったはずです。

 さらに恋人が男性でもあることも、サンローランを孤独へと追いやりました。今も昔も、アーティスティックな世界ではより寛容なイメージです。それでも、オートクチュール=上流階級=保守的でした。

 そのことを象徴するのが、彼のメゾンと自宅の場所です。最初に所属したクリスチャン・ディオールのアトリエも、独立後に持った自身のアトリエも、他のオートクチュールの店と同じように“右岸”にありましたが、住まいには“左岸”のRue de Babyloneバビロン通りを選びました。自分の愛するドレスのために毎朝“右岸”へ向かい、自身を避難させるかのように河を越えて“左岸”へ帰宅しました。彼は決してバビロン通りの家に仕事を持ち帰りません。“左岸”はパリの中で唯一、自由でいられる場所でした。

 バビロン通りは“左岸”の中心地であるサンジェルマンデプレに通じています。第二次大戦後、“左岸”の中心は「狂乱の時代」のモンパルナスから、サンジェルマンデプレに移っていきました。サンジェルマンデプレは大学などの教育機関が多く、“Quartier latin カルチエラタン”つまりラテン語を話す人々(教養のある人々)が集まる界隈にあります。

 そこには17世紀末から知識人、文学者や哲学者、政治家が集まり議論の場となるカフェが次々と生まれました。20世紀に入ると、そこへ芸術家や歌手、女優も集まるようになり、若者が溢れる地区となりました。夢を語り、変化を求め、刺激的で、何より自由な発想が認められました。サンローランはここでパリのさまざまな人と出会い、人をオマージュして創作を行っています。

 “左岸”の人々が発信したエネルギーや美しさをもとに、生まれたのは<サファリルック>、<マリンルック>、<パンタロン>、<シースルー> などのスタイルです。“左岸”の思想がイヴ・サンローランのファッションによって発信されました。人へのオマージュは、イヴ・サンローラン自身がパリで感じた社会的な拘束からの解放運動へのオマージュでもありました。

 パリにあるイヴ・サンローラン財団のHPから、シースルーに関する記事です。デッサンや写真だけでもお楽しみください。

 次回は「万人におしゃれを」。彼が“左岸”に捧げたファッション、プレタポルテのブティック“リーヴ・ゴーシュ”についてです。

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