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早く着き過ぎると何が起こるか

待ち合わせなどの予定されていた時間より大幅に早く到着したときに、「早く着き過ぎた」ということがよくある。これは、正しくは「着くのが早過ぎた」だ。しかし、前者の方をむしろ頻繁に口にするようになっているようにさえ感じる。

予定の時間に対して早い遅いは存在するので、これに対して大幅に早かったり遅かった利する場合、早過ぎた遅過ぎたと言うことはできる。しかし、到着という移動の終了を表す概念に過剰なことがあるだろうか。

仮に、到着した時に地面にめり込んでしまったのだとしても、それは運動エネルギーが過剰だったために到着の「様子が激しかった」のであって、到着が過剰になったのではない。

ある地点Aから移動を始めて地点Bで移動が終了する。この際の移動の終了を到着という。概念には一定の幅がある。目的地にぴったりたどり着くことも到着だし、まあ、数十メートルから100m程度、待ち合わせの相手から目視できるくらいの範囲が、到着の幅と言えるだろう。

ここで考えてみたいのは、到着が過ぎたらどうなるかということだ。到着は移動の終了なので、早い遅いの概念を伴うとしても過剰か不足かは問題にならないはずだ。しかし、我々は「着くのが早過ぎた」と言う。

到着が過剰である時、それは過剰であるので、到着の概念から逸脱してしまっている。つまり、到着していない。ひょっとしたら一度は到着したもかもしれないが、今この瞬間には到着していない。なぜなら過剰に到着したことによって到着から外れてしまったのだ。つまり、早く着き過ぎたとき、我々は到着していないのだ。

早く着き過ぎたの反対語があるとする。そうだな、到着の早さが足りなかった、とでもなるのだろうか。到着の早さが不足していた。なんだこれは。もう意味が分からない。

ここまで考えてみて今まさにふと気づいたのだが、この問題は、「早い+着く」問題ではないのではないかということだ。つまり、着くがメインでそこに早いがかかる「早い+着く」だと本来問題にならないはずの「過剰」が変な方向に行く。

しかし、「早く着く」という一つの形容詞と動詞の複合体のようなものだとすれば、物事は一気に解決する。「早く着く」は移動の終了を表すと同時に時間的に予定より先行していることを表す。

言葉を口にするときに、重要な事柄を先に言いたいものだ。9時半の待ち合わせに8時50分に着いた。この場合、「着くのが早過ぎた」だと早かったかどうかを言うのが最後になってしまう。言いたいことは、非常に早く着いたということで、(すでに到着しているので)着いたかどうかの優先度は低い。

そうすると、とにかく早かった、そしてそれが過剰ともいえるものだった、ということを言いたいあまり、「早く着き過ぎた」という本来存在しないはずの新単語が創造された、ということになるんじゃないかしら。

これを言語の創造性というべきなのか、知性の減退というべきなのかはわからないが、ほとんど(私を除く)違和感なく人口に膾炙しているところを見ると、前者と言っていいのだろう。

という具合に、前のブログ時代に引き続き、個人的に気になった言葉の表記や表現についても素人考察していこうかな。

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