ディテールを写し、マクロを映す
毎日の生活のなかで、ずっと興味を持ち、写真を撮るときに意識することがある。
「ディテールを『写す』ことは、マクロを『映す』」という捉え方だ。
これは日常の中に非日常が潜んでいるという考え方にも通じている。
そうした視点に通じる数々の興味深い世界観がいくつか存在する。
ウイリアム・ブレイク 〜一瞬のうちに永遠をとらえる〜
まず一つは、18世紀のイギリスで活躍した詩人、視覚芸術家であったウィリアム・ブレイクの世界観。
彼が記した『無垢の予兆』という詩のなかで語られた「一粒の砂を見て世界を思い描く」という断片がある。
そこには日常に潜む小さなものの中に無限の宇宙を感じ取るという洞察力が示されている。
ウィリアム・ブレイクは微細な存在、ディテールの中に広大な宇宙を映し出すことで、見る者に新たな視界を開かせた。
だれしも、果てしなく、神秘的な宇宙(世界、天国)に憧れの感情を持つだろう。
その憧れにふれるれには、手元にある一粒の砂や一輪の野の花をみることで叶うとブレイクは謳う。
自分に手が届く日常に神秘的な宇宙への入口があるということに感動した。
個体と全体とは互いに即している 〜華厳宗「一即一切、一切即一」〜
時空を超え、仏教の一派である華厳宗にも、そうした入口の存在が示唆されている。それは「一即十」の思想のなかで提示された「一即一切、一切即一」という概念だ。
そこで伝えているのは、自己と他者とのホリスティックな関係性だ。
「全ての存在は互いに深く結びついており、個々の存在が全宇宙を反映している」という、互いに依存する宇宙のビジョンを提示している。
ここでも、ディテールを見ることの大切さと可能性が説かれている。
その視点は宗教的、精神的な様相だけでなく、現代科学的においても適応可能だ。
例えば、採血による一滴の血液。そこには、人体の広範な情報が含まれており、赤血球や白血球、ホルモンからDNAに至るまで、身体の健康状態や遺伝的特性を反映している。
ミクロな量子力学の研究が宇宙の根源を解明する一端を担っていることもそう。
物理学の分野では、素粒子の挙動を研究することで、宇宙の成り立ちや基本的な力についての知識が拡がる。
例えば、ヒッグス粒子の発見は、物質が質量を持つメカニズムを理解する上で画期的なもの。ミクロな粒子の研究から、宇宙の大規模な構造やダイナミクスを説明する理論が生まれている。
西洋科学の興隆以前、仏教は宗教を超えて宇宙観や心理学に関する探求を行っていた。華厳宗は一即一切、一切即一の概念を通じ、宇宙の働き、自然界や心の働きを解き明かそうとしていたのだ。
最小の存在から宇宙全体まで、全てが互いに密接に関連していると見なす。個の中に全体が含まれ、全体の中に個が存在する、という理念は、宇宙のすべてのレベルが互いに結びついていることを教えている。
「日常と宇宙」の関連性を視覚的したイームズ夫妻が手がけた映像作品
近代では、ミッドセンチュリーのデザインを代表する工業デザイナー、イームズ夫妻(チャールズ & レイ・イームズ)が手がけた映像作品「パワーズ・オブ・テン」でも、日常と宇宙の対比をみることができる。
イームズ夫妻はラウンジチェアやシェルチェアなどで知られており、そのデザインはプラスチック合板を採用した機能性、オーガニックな美しさを兼ね備えていることで知られている。
彼らの作品がオーガニックと評価される主な理由は、自然の形態や原理をシルエットに取り入れたデザインへのアプローチにある。
1977年「パワーズ・オブ・テン」という興味深い映像作品を彼らは発表している。現在地から宇宙の果てに相当する10の24乗メートルまで移動し、さらにそこから10のマイナス12乗メートルくらいまで急降下する状況を映像化したもの。
シカゴのピクニックを楽しむカップルから始まり、宇宙の最も遠い領域へと視点を広げ、その後、人間の内側、さらには原子レベルへとズームインしていく。
乗数の世界を可視化し、例えば水素原子の大きさがおよそ50pm(ピコメートル)であるなど、科学が扱う目に見えない世界を言葉ではなく、映像で示している。こうして、無限に広がる宇宙の大きさと、その中での人間の位置を視覚的に理解することを目的としている。
「パワーズ・オブ・テン」は、宇宙の最大のスケールから最小のスケールまで、一連のスケールを通して連続性と統一性を示す。これは、マクロとミクロの界隈が互いに影響を及ぼし合っていることを象徴している。
私が写すもの
3つの世界観は宇宙の相互依存性と統一性を異なる方法で探求し、それぞれの視点から宇宙の構造と存在の本質を理解しようとする共通の目的を持っている。そして、ささやかな私達の存在やなにげない日常が宇宙と響き合っている、そんな奇跡を示している。
私が写真を撮るときにふと感じるのは、そうした奇跡を実感し、毎日の生活で目に触れるもの、瞬間を別の何かと繋いでみているということだ。
手すりにつたう一粒の水滴、葉脈の細やかなパターンや煌めく乱反射の中に生命の輝きや宇宙のを通じて、私たちの日常生活が宇宙の壮大なスケールの中でいかに意味深いかを感じ取り、写し撮ること。
さらに、これらの行為は、じつは、遠く離れた場所での戦争や紛争、さまざまな問題へ光を投げかけ、地球上のすべてが繋がっていることを実感することであり、「撮る」という行為が「祈り」であることを感じさせてくれる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?