新_小説のふるさと_束見本

写真家の林義勝さんとお話したこと。

 写真家の林義勝さんが写真展にいらした。
 林さんは、伝統芸能や文学・風土といった時の記憶を確かな構図と美しい色使いで活写される日本を代表する写真家で、また林忠彦氏のご子息。
 「新・小説のふるさと」はもちろん林忠彦氏の『小説のふるさと』に多大な影響を受けていることは言うまでもないし、実際、尊敬をこめてタイトルに『小説のふるさと』のお名前を戴いた連載だったわけで、この日ようやく林義勝さんにお会い出来た。
 わざわざ会場にいらしていただき、御尊父にとって『小説のふるさと』という作品がいかに大事な作品であったかというお話を伺い、タイトルの重さに思いを廻らすとともに、義勝さんに励ましをいただきこの上もない日になった。

 そして、そのときもう一つ話題に上ったのが、写真の時代性だった。平成の時代の小説を取り上げ、その物語世界の具象性 (figurativeness よりは、live detail) を求めた作品はオートマチックにその時代を記録している。たしかに写った電信柱は50年後にはもうないだろうし車もバスも電車もやがて古びて過去のものとなる。ただオートマタ的に撮られた写真には様式がない。たとえ後日の鑑賞者によってその時代性がサルベージされるものであっても、そこの何らかの様式がなければ表現とはなり得ないし、記録としても薄いモノだろうと思う。そこがこのシリーズのもっとも大きな弱点であることにいまさらながら思い至る。

 ただ一つ言い訳をするとすれば、僕はむしろ社会性をあえて無視して個人的な体験(読み方)に徹したかもしれないと言うことだ。なるべく取材はかけずに、物語りの世界に没入して、撮れるところからしか撮らないというズボラな方法で作ったビジュアル翻訳は、自我性が薄い分、垣根を低くできたのではないかと思う。


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