みぞおちをひらく

整体の愉気の会に参加した。

バッハのレコ―ドが終わり、先生が前に立つとほぼ同時に、窓の外から光が差してきた。雨がやんだのだ。

久しぶりに会に出て、自分のからだのかたさを呪った。からだのかたさはこころのかたさ、とどこかで聞いた。

「みぞおちを抜いて」と言われた。
みぞおちは、ひとのからだのなかで、もっともやわらかい場所なのだという。そのもっともやわらかい場所をもっともかたくして、ひとは自分を守る。
先生がアルマジロを例に出したとき、なぜだか息子が小さいとき、大きな子に押されて、後ろのガラスに頭ごと突っ込んだことを思い出した。急だったが、息子はぐっと首を後ろにいかないようにちぢめた。だから無傷だったのだと、保育園の先生は言った。

普段はここは力を入れずに、開け放しておくのがいい場所なのだろう。だけど、わたしはいつも少し力が入ってしまっている。それはいつも、なにかにせかされていることと無関係ではないだろう。

わたしを含め、現代人はやることがいっぱいある。決めることもいっぱいある。

「決める」とは他動詞だ。自分以外のことに力を持とうする言葉。かたや、自動詞の「決まる」にはおくゆかしさがある。おのずから、決まるものは決まる。それは、運命とまで言ったら言いすぎだが、縁に似ている。

誰のせいでもないのだ。わたしたちは、自分で責任を取ろうとしすぎているのかもしれない。それはそのまま、人のせいにしたがることにつながる。

みぞおちをひらいて、おのずから受け入れ、出ていくものを見送る。


楽しいことをしていきます。ご一緒できたら、ほんとにうれしいです!