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許せない人のこと

自分の悪行について、一人の人間からとんでもなく叩かれたことがある。

例によって私がずぶずぶの恋愛関係に陥っていたあるとき、一年前くらいから親交があった年下の女性と年上の男性と三人で飲んだことがあった。私が世間話として現在の恋愛関係について話したのがそもそもの間違いではあった。今ではこの場にいた私以外の人間ふたりには地獄に落ちてほしいと素直な気持ちで望んでいるけれど、当時はそれなりに仲良くしていたつもりで、気を許して話をしてしまったのだろう。

攻撃をしてきたのはこのうちの女性の方だった。その日の夜のうちにLINEが入り、SNSにはすでに私の悪行について、憎悪を憎悪で焚き付けるように怒っており、さらに多数派工作のように共通の知人をスペースという公開通話に巻き込んで広々とまき散らしていた。

彼女の気が済むのに1週間弱かかった気がしているが、その間の攻撃はもうひどいものだった。私は無言を貫いたけれど、私が全く別件の司法に関する記事にいいねをしたことまでも槍玉にあげて攻撃的なツイートをしてくる執着っぷりだった。いまでは「好かれたものだなぁ」と思えることでも、当時は心臓がキィキィと音をあげながら萎縮する痛みを感じていた。


その女性のツイートを久しぶりに見かけたのが、タレントのryuchellさんが亡くなった日のことだった。彼女はその日も怒っていた。

「ryuchellさんの見た目とか生き方とか、他人の家庭事情とかのことをSNS上で叩いたり揶揄していた人が、今急いで当該ツイートを消していたりするの、最悪だと思う」
「絶対にryuchellさんに対する最悪ツイートを消すな 責任をとって罰せられろ」



こいつは死んでほしい、と心から思った。

iPhoneの画面上に映された彼女の怒りを見て、私への暗喩の中傷が画面を埋めるタイムラインの中で自分の心臓が軋む音を聞いていた瞬間のことを昨日のように思い出していた。彼女はきっとそのこと自体憶えていないか、ryuchellさんへの攻撃と私への攻撃の区別を綺麗につけていることだろう。そして被害の受け手にとって、その差がないことを一生知らないのだろう。

今日、燃え殻さんのエッセイを読んで、久しぶりに二十二歳で亡くなった女子プロレスラーの木村花選手のことを思い出した。木村花選手の死の具体的な背景はわからない。ただ、彼女が酷い内容の誹謗中傷を集中的に受けていたことは事実だ。そして私を中傷した女が怒って指摘していたryuchellさんのときと同じように、亡くなった途端に誹謗中傷を書き込んでいたアカウントは逃げていった。卑怯な人間たちだ。


木村花選手やryuchellさんへ送信した攻撃のメッセージはネット上から削除できる。あるいは自己弁護をして、私は悪くないと開き直ることもできるのだろう。けれど、攻撃を受けた人間の心の傷はなかったことにはできない。ましてや、亡くなってしまった人間は二度と返ってこない。そのことを一生気づけず、人の痛みをわかったつもりのまま、今日も彼女はどこかの誰かを攻撃して気持ちよくなっているのだろう。


木村花選手は亡くなる直前、飼っていた子猫を所属団体の道場にそっと置いていったらしい。子猫はもともと保護猫で、「丸くて茶色くてからあげみたい」という理由から木村花選手から「からあげくん」という名前をつけられていた。

燃え殻さんは、「最期に子猫をそっと置いていった彼女の優しさを、僕は忘れずにずっと憶えていたい」とエッセイを結んでいた。私も憶えていたいと思う。

私は彼女のことを一生許さない。許さないけれど、あんな人間をもう憶えていたくはない。代わりに、ryuchellさんと木村花選手と「からあげくん」のことを憶えていたい。子猫を置いて道場から帰る道の彼女の痛みを、私は自分が感じた心臓の萎縮と一緒に、ずっとずっと憶えていたい。

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