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大東流の三大技法(続)33

惣角は、後継者を探していました。最初の候補は植芝盛平です。しかしながら植芝は自らの道を行き後継者にはなり得ませんでした。次に出会ったのが久琢磨だったのです。武術の素養もあり社会的地位もある申し分ない後継者でした。ところで、息子の武田時宗には、幼少期英才教育を施し、成長してからは助手として巡回指導に随行していましたが、全技法の教伝はなされていません。江戸柳生系合気柔術はほとんど知らないからです。なぜ、後継者に選ばなかったのか?その真意は不明ですが、皆伝の口伝を受けた久が惣角に「この内容は、時宗氏に伝えた方がよいのか?」と聞いたところ「必要ない」との回答があったとのことですから、この時点で何らかの判断がなされていたのでしょう。

さて、惣角は昭和14年に久に皆伝を許し、二度と都会に出てくることはありませんでした。昭和16年には半身不随となり転地療養し、17年にも小樽で倒れ、半身が不自由な状態で再び巡回指導に出向き18年4月25日に青森で客死しました。ここに、惣角86年にわたる放浪の人生が終わったのです。

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