「定年」は「特権」なのかもしれない

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はじめに

一年有余のコロナにマケズ、夏の日照りやゲリラ豪雨にもマケズ……そんな心意気で、<FC2ブログ>から「週刊定年マガジン」の看板をそのままひっさげ、<noteブログ>新装開店第1号のテーマは、「定年の心得」「サラリーマン終活5か条」で決まりでしょ、などと思い定めたものの、書いては消し、消しては書いてのトホホの日々。

もちろん文才のなさゆえのことなのですが、どう書いてもしっくりこないオリのような「何か」が残ってしまうのです。
その正体は……? と、よくよく考えてみれば、定年退職者の感傷的な繰り言やら「定年ビンボー」話など、コロナ禍の非正規雇用で苦しんでいる方からすれば、ちゃんちゃらおかしい、甘ちゃんの戯れ言ではと、ハタと思い当たったのです。

それに、「週刊」とうたい、7月中に新装オープンと大見得を切りながら、<noteブログ>の投稿ボタンを押せない、焦る心のもどかしさ。

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(↑)最近観た韓国ドラマ「ストーブリーグ」(2019年制作)は、プロ野球球団の黒子であるフロントの人間群像を描き、弱小チームが優勝を目指すべく球団内改革と選手の補強に努めるという物語。主演のナムグン・ミンはじめリアルで感動的な演技をみせてくれた、“企業ドラマ”でもある秀作。

そのくせ、日・韓ドラマ/映画にうつつを抜かし、日を追うごとに反省しきり、空を見上げりゃ梅雨は明け、耳を澄ませばセミの声、猛暑下の“汚れた五輪”とパンデミック“第5波”急襲が身にせまる。

いっそのこと、「週刊定年マガジン」の看板などさっさと引っ込め、「老年マガジン」やら「シルバーマガジン」に改めてはどうか、と内なる声しきり。

そして、あれやこれやで、とうとう、「定年とは特権」ではないだろうか、というオリのような「何か」の核心に行きついてしまったのです。

「特権」と「差別」

それに気づかせてくれたのが、林香里さん(東京大学大学院教授)の「論壇時評」でした。
林さんは、ある論考(*)をもとに、次のように書いています。(2021/07/29付朝日新聞に掲載)

(*)出口真紀子、執筆・佐々木将史「差別や人権の問題を『個人の心の持ち方』に負わせすぎなのかもしれない。『マジョリティの特権を可視化する』イベントレポート」(こここ、6月24日)

<出口真紀子は、私たちの多くは、どこかで少しずつ特権をもつマジョリティに属するのであり、それを一人ひとりが自覚してこそ、社会から差別をなくす第一歩になるという。出口は、「自分は差別なんかしていない」という人たちに対して、自分たちが「労なくして得ることのできる優位性」という「特権」をどれだけもっているか、自分たちがマジョリティを形成している部分に想像力を働かせよと問いかける。>

この指摘は、会社員や公務員など業態に関わらず、雇用されている「勤め人」の世界にも十分当てはまる構図です。
どの職場内でも急速に増加している非正規雇用の人たちに対して、「マジョリティ」に属す正規雇用の人々は、<「自分は差別なんかしていない」>という意識をおうおうにして抱きがちで、「同一労働」なのに入社試験に受かったということだけで「正規」になれたという<「労なくして得ることのできる優位性」という「特権」>には、“正規プライド”が邪魔して、あんがい気づかないものです。

そのよい例が、企業なり国・自治体がコスト削減という「合理化」名目で人減らし方針をとったときです。
正規社員・職員は、「労働組合」があれば交渉の先頭に立ってくれるでしょうが、嘱託・契約・パート・アルバイトなど非正規社員・職員には守ってもらえるすべがなく、トランプのお得意のセリフではないけれど、「ファイアー」(おまえは首だ!)と言い渡され、職場を去るしかないのが常です。
(ただし、個人加盟の「ユニオン」はたいがい誠実に未組織労働者を支援してくれます)

しかも、「労働組合」にもさまざまあって、経営者側の言い分に「労使協調」で理解を示し、正規社員・職員の雇用だけは優先するかと思えば、中高年の「希望退職」という名の「解雇」はすんなり受け入れ、いずれにしても、非正規はばっさり切り捨てる、というのが、残念ながら経済低国ニッポンの常識です。

したがって、満60歳なり65歳で「定年」を迎えられるというのは、よほどの運に恵まれた者の<特権>かもしれず、そのことに無自覚なのは、罪なのかもしれません。

その「特権と差別論」を国家・国民レベルに広げると、どうなるでしょう。
林香里さんは、こう続けています。

<たとえば、朝日新聞読者の多くはおそらく、日本語がわかり、日本国籍をもつ「日本人」という特権を享受していることを認めないわけにはいかないだろう。(中略)そのこと自体が、そうでない人たちに抑圧的に働くことを自覚せよと(註:論考筆者は)いうのである。社会には、特権をもつ人ともたない人との間に、無意識の行為によって生まれる構造的差別が存在し、多くの人がその部分に重なり合っているというのだ。>

では、「週刊定年マガジン」という看板をおろすべきか、それとも……とさんざん迷いました。
けれども、「定年」という「特権」と、それがもたらす「無意識の構造的差別」を自覚し、細心の注意を払いながら、「大文字」ではなく、なるべく「小文字」のブログをつづっていこうと結論づけ、屋号は変えずに続けていくことにしました。

きのうの出来事

元気づけてくれる出来事がきのう(8月2日)立て続けに起きました。
どちらも連れ合いに関する事柄なのですが、一つは祖父にまつわる企画が正式に決定したと先方から知らせが届いたこと(これで来春のほぼ同時期に義祖父の2つの企画が相次いで公開される予定です)、もう一つは連れ合いの父親が教鞭をとっていた二松学舎大学の附属高校が甲子園出場を決めたことです。

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(↑)「祝 甲子園出場!!」の横断幕を掲げる二松学舎大学附属高校の応援団。決勝戦に敗れた関東一高のメンバーの心中を察したのか、すぐさま幕を下ろしたのが爽やかに映った。

全国高校野球選手権の西東京大会決勝戦は強豪の関東一高との対戦でしたが、最速152キロの速球派・市川投手から10安打5得点を奪い、守っては制球派の秋山正雲(せいうん)投手が137球の完投で3安打1失点におさえ、二松学舎大附属は3年ぶり4度めの甲子園出場を決めたのです。(試合会場は、東京ドーム)

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(↑)二松学舎大附属の左腕エース秋山投手は、最後のバッターを空振り三振に打ち取り、マウンド上で思わずガッツポーズ。

高校野球は試合終了のサイレンが鳴るまで何が起こるか分からないとよく言われます。
きのうの決勝戦も、9回裏、関東一高の攻撃、2アウト・ランナーなしまでこぎつけましたが、バッターはそれまでことごとく相手をコールドゲームにねじ伏せてきた4番の津原一塁手、その主力打者を二松(にしょう)の秋山投手はみごと空振り三振に打ち取ったのです。

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(↑)勝利の瞬間、二松学舎大附属のメンバーはマウンドに駆け寄り、130校が熱戦を繰り広げた西東京大会の頂点を表す「1」を天に突き上げ、歓喜にわいた。

連れ合いは父親の遺影をNHKの中継画面に向け、勝利の決勝戦を見せていました。
真夏の甲子園球場に新幹線に乗って二松(にしょう)の応援に駆けつけるほど(プロアマ問わず)野球を観るのが好きで、二松と横浜(大洋ホエールズ当時から)を欠かさず応援していた義父のこと、天から選手の一投一打に拍手を送り、勝利のゲームセットには着物の裾をはだけ膝を叩いて喜んだ様が目に浮かびます。

それに、生前の父親とは娘として何かと折り合いがつかなかった連れ合いが、「お父さんも大喜びしたんじゃないかな」と照れくさそうにつぶやいたひと言が、「和解」の言葉として天に昇っていくような気がして、いい場面に立ち会ったな、という心持ちにさせてくれました。

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