キリトリ線

ある日、爪の先が割れていた。
どこかでぶつけたり、引っ掛けた記憶もなく、ずっと前からそうであったかのように痛みもなかった。
生え際から爪の先までまっすぐに伸びる白線は、図工のときにチョークで描いたキリトリ線のように見えた。

今まで気にしていなかったことに気がつく時は、僕にとって物事が良く無い方向に進んでいる時だった。
肺に穴が空いた時も、付き合っていた子から別れを告げられた時も。

今回もその例に漏れず、新しいキリトリ線は普段の生活を不自由にしていった。今までならなんて事の無い作業であっても、割れた爪は白線に沿って、そのヒビを深くしていった。
一度だけならともかく四六時中、指先に気を使っていると全てが面倒になる。
制服を着る際には、爪が引っかからないように気をつけなければいけなかったし、部活の道具を持つ時にも親指には力を入れられない。
教科書をめくる時は特に怖かった。本来なら守られている筈の皮膚が、割れた爪の間からスッパリ切られるのだから。

爪が割れてからというもの、僕の爪は指先よりも長くなることがなくなった。
ヒビが広がって僕に向かってくる前に処分する。間違って引いてしまったキリトリ線を消しゴムでキレイにするように。
絆創膏を巻いてみたり、保護用のマニキュアを塗ってみたものの、キリトリ線は一向に爪から消えてくれなかった。

「指どうかしたの?」
母は親指に巻かれた絆創膏を見ると、開口一番に尋ねてきた。
いろいろと説明することは億劫だったけれど、わざわざ嘘をつく程の事でも無い。
「なんか爪割れちゃって」
一瞬驚いた表情を見せた母は、「あんたたち、ほんとにそっくりね」と苦笑いを浮かべた。
「なにが?」
「お父さんも指の爪が割れてるのよ」
「知らなかった」
父の手をしっかりと見たのはいつが最後だろう。
記憶の中の父の手は、大柄な体に相応しい分厚い掌から、指先から根元まで太い指がにゅっと生えていた。
対照的に僕の細い指と薄い掌は、コンプレックスという程では無いにしても、自分の体であまり好きになれないパーツであった。

父と僕はあまり似ていない。

周りの人はそっくりだと口を揃えるけれど、実感としての感情はそれ以上のものではなかった。

「いつから割れてんの?」
「結婚する前には割れていたから、もうだいぶ経つんじゃない」
「後で聞いてみるか」
母もその話には興味を失ったようで、そそくさと台所に入っていった。

「母ちゃんから聞いたんだけど、指の爪割れてるのはマジ?」
「ああ、高校の時かな、友達に踏まれてそれからずっとだな」
ほれと言わんばかりに手を差し出してくる父の親指の爪は、僕のそれとは全く違っていて、横に幅が広く長方形だった。ただ一つ真ん中に白いキリトリ線が入っていた事を除いては。
「うわ、完全に同じ所が割れてる」
「本当だなあ、不思議なもんだ」
「これ遺伝なの?」


「爪 割れる」と検索窓で調べた時、栄養不足や、病気のサインといった不気味な言葉の羅列に入っていた遺伝性という単語。その時は父の爪が割れていたことを知らなかったから、あまりピンときていなかったその言葉が質量を持って記憶の中から浮かびあがってくる。


「俺の場合、友達に踏まれてから割れたままだから違うと思うけど、もしかしたら元々爪が弱いのかもな」
「不気味なくらい同じ所にヒビが入ってるし、そうかもしれないね」


同じ時期に同じ場所の爪が割れたこと。
あまり似ていない僕と父の共通点を見つけた事は、偶然かもしれないけれど、当時の僕はキリトリ線が父との目に見える繋がりのような気がして嬉しかった。

気がつかない事に気がついてしまう事は、ずっと悪いことの先触れだと思っていた。

ただそれはきっと僕の目が曇っていただけだ。
今はもう僕の爪は割れていない。それでもいまだに残っている白いキリトリ線は、時々父の幅広で縦に短いあの爪を思い出させてくれる。

#cakesコンテスト2020 #エッセイ


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