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母と子の親和性

いつだったか、友人が「母と幼児には親和性があるからね」と言っていたことがある。それが、スピリチュアルな意味なのか、心理学的なものなのかは今もなお判別しかねるのだけど、まあ、間違ってはいないと思う。

母と子というのは、まず共に過ごす時間が長い。ごはんも一緒に食べるし、お風呂も一緒に入る。トイレについてきたりついていったりすることもあるし、ベッドに入るタイミングも同じだ。外を歩く時は手を繋ぐし、添い寝やハグや、そういう肌を触れ合う機会もとても多い。
これはあくまでうちの息子の傾向かもしれないけれど、好きなものや今やっていることを共有したがるところもある。例えば、TVを一緒に見てほしい、遊びを一緒にやってほしい、自分が発見したものを報告してきたり、アイデアを披露してきたり。
そうして一緒に過ごして色んなものを共有しているので、使う単語や言葉遣いは自然と似てくるし、おそらく、考え方なんかも影響していくのだろうと思う。

子どもを持つ前から、「自分は気をつけないと子どもにフォーカスしすぎるだろう」と何となく思っていた。一生懸命になることは悪いことじゃないし、一生懸命やらざるを得ないことはたくさんある。けれど、一生懸命になりすぎると、子にも自分にも悪い影響があるという気がしていた。「ここまでやってやったのに」とか「私の言うことを聞け」とか。殻の巣症候群とか。そういう母になりたくなかったので、それこそまだ胎児の頃から、「外界で自分で息をして口から栄養を摂って生きていく覚悟を決めて出てきなさい」「一刻も早く経済力を身につけ、親と対等な関係になってほしい」と意識的に思っている。その方針は今も変わらない。

先日発達検査を受けたという記事を書いたが、その結果も数日前に聞いてきた。検査結果だけではなく、成育歴や日頃の様子など、細かいヒアリングもしながら、丁寧にお話をしてくださる先生で大変ありがたかった。
お話の内容自体は、改めて驚くようなことはなかった。これまでやってきたことは正しかったし、これからも大きく変わることはない。ああやっぱりそうですよね、という感じで、経験や推察の裏付けが取れたという印象だった。なので、結果に傷ついたりとか、ショックを受けたりとか、そういうことは特段なかったように思う。

ただ、発達検査の手配をしているときや受給者証の更新の時もそうだったけれど、息子について改めてフォーカスするタイミングには、色々と考えすぎてしまう。結果を聞いて、保育園や療育にもその内容を共有し、日々を過ごす中、常に息子の発達や苦手や将来について様々なことが頭の中に渦巻いている。それは建設的なこと(苦手の補完や支援方法についてや、できることをどう伸ばすか、等)もあれば、不安(小学校大丈夫なのかとか、放課後デイや学童の手配方法、就学相談の準備等)もある。家庭で見ている息子の健やかさと、保育園で目にした困り感とのギャップをうまく消化できなかったり。とにかく、常に息子のことが良くも悪くも悶々と頭の中にあるというかんじだ。

どうしてやればいいんだろう、どうしたらいいんだろう。いつか~みたいなことで苦しむんじゃないだろうか。今保育園に行かせていることは彼にとって本当にいいことなのか、ただ苦痛を与えているだけなんじゃないだろうか。でも集団の中で生きていくことは避けられない。etc..etc…

時に涙しながら、色々考える中で、はたと気が付いた。
 いや、そうはいっても私、息子のために生きてるわけじゃないし。
 彼の人生は彼のものであって、私がどうこうできることじゃないし。
結局、彼の人生を歩んでいくのは彼自身なので、もちろん理解やサポートはするけれども、私があんまり思い悩んだところでどうにかなることなんて爪の先ほどもない。
じゃあなんでこんなに悶々と思い悩むのか。
そうか、距離が近すぎるからだ!!

というのも、6月は保育園をお休みすることが多かった。風邪をひいたり、病院受診だったり、いつもより家にいる日数が多かった。更に、夫の繁忙期が重なって平日も深夜まで帰って来ないし、土日も仕事があった。加えて、私自身が安静度高めの妊婦なのと最近の気温の高さで家に引きこもっていて、友達に会ったりもしていない。
そういう状況と、発達検査という向き合うタイミングが運悪くバッティングしてしまったが故に、息子に目が向き続ける環境が出来上がってしまっていた。

そこに気が付いたので、私は早々に友人にアポを取って、週末遊びに出かけることにした。物理的距離も離すし、子育て以外の会話や買い物をして、精神的にも距離を取りたい。本当に、意識しなければ息子と私の境界が(あくまでも私の側から一方的に、)曖昧になってしまう。

息子の問題は息子の問題。
母親が心配したり介入したりしてどうにかなることはない。だったら、あまり考えすぎず、適度にカラッと機嫌よく彼をサポートできる方が健全だ。

子を産んで育てて知ったけれど、想像以上に子どもは親が好きだ。それが子どもというものの生存戦略なのかもしれないし、あらゆる面において未熟な彼らが生きる手段はそこにしかないからかもしれないけれど、八つ当たり的に怒鳴りつけた後ですら、「おかあさん、だいすきだよ」と言ってくれる。
母親という仕事は承認欲求を満たしてくれるのだ。特別貢いだりおべっかを言わなくても、生活を共にするだけで、「大好き」「ありがとう」「ずっと一緒にいようね」と言ってくれる。
だからこそ、気をつけなければと、いつも思う。赤ん坊であったとしても、ひとりの人間として対応しなければ、母と子の境はどんどんぼやけていく。

「親和性が高い」ということを意識したうえで、ちょうどいい距離感を保つこと。それが私にとっては大切だと思う。


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