見出し画像

優秀な利根川は、カイジになぜ圧倒的敗北したのか?

「人間」が描かれたカイジの凄さ

昨今の若者に好きな漫画を3つあげろと言われると、「鬼滅の刃」「キングダム」「ONE PIECE」「進撃の巨人」「約束のネバーランド」「僕のヒーローアカデミア」が上位にランクインするでしょうか。

いずれも筆者は読んでいるのですが、それでもなお欠かせないと考える漫画が1996年から連載が始まり今なお続いているシリーズ「カイジ」です。

テレビアニメ化、パチンコ化、パチスロ化だけでなく、藤原竜也主演で映画化もされている名作です。よく冷えてそうなビールを前に「キンキンに冷えてやがる」と叫び、一口飲み干せば「悪魔的だぁ〜」と呻くモノマネ芸人を見たことはないでしょうか。あれです。

「カイジ」の主人公は、「鬼滅の刃」の竈門炭治郎や「キングダム」の信のように情熱的で信頼のおけるキャラクターではなく、控えめに言っても人間のクズで怠惰で自堕落なダメ人間・伊藤開司(カイジ)です。

しかしながらカイジの悪魔的な知恵と天賦の強運、そして逆境を切り開く勇気と洞察力で人生そのものを賭けて勝ち上がっていくギャンブルストーリーは、見る者を圧倒します。ギャンブルに少しでも触れる人間で「カイジ」を知らなければ、モグリと断定されてもおかしくありません。

「カイジ」の魅力の1つは、言葉の強さにあります。

「鬼滅の刃」にも「生殺与奪の権を他人に握らせるな!惨めったらしくうずくまるのはやめろ!」等の数え切れない名言があります。こちらはどちらかと言えば光、人間の希望が放つ言葉です。

しかし「カイジ」の場合は圧倒的な闇、人間の汚濁が放つ言葉が圧倒的に多い。どちらも同じ「人間」を対象とするのですが、描き方がエグい。

「明日からがんばるんじゃない…今日…今日だけがんばるんだっ…! 今日をがんばった者…今日をがんばり始めた者にのみ…明日が来るんだよ!」

「勝たなきゃダメだ…勝たなきゃ悲惨がむしろ当たり前。勝たなきゃ誰かの養分…」

「奴ら…可能性を見ていない。言っちゃ悪いが、奴ら正真正銘のクズ…負けたからクズってことじゃなくて可能性を追わないからクズ…」

こんなセリフが「鬼滅の刃」に出てきたら、子供たちが泣き出してしまうかもしれません。

中でも圧倒的な強さを見せるのは、大手消費者金融を主体とする日本最大規模コンツェルン「帝愛」の最高幹部の1人であり、賭博黙示録シリーズのボスとも言える利根川幸雄です。その人気ゆえにカイジのスピンオフ作品「中間管理録トネガワ」では主人公になるほどです。

なぜなら、利根川の言葉は過激ながら圧倒的本質をついているからです。

「金はな…命より重いんだっ…!世間の大人どもが本当のことを言わないならオレが言ってやるっ…!金は命より重い…!」

「おまえらはもう20歳を越えて、何年もたつのだから、もう気が付かなきゃいけない。もう、心に刻まなきゃいけない…! 勝つことがすべてだと…勝たなきゃゴミ…」

「もう少し待ってくれ? お前らは生まれてから何度その台詞を吐いた? 世間はおまえらの母親ではない! おまえらクズの決心をいつまでも待ってはくれない! 一生迷ってろ! そして失い続けるんだ…貴重な機会(チャンス)を…!」

利根川は、実際の世界で言えば圧倒的強者と言えるでしょう。優秀かつ、ギャンブルに強い勝負勘。圧倒的な猛者です。

しかしカイジと変則的ジャンケンゲーム「Eカード」で戦い、最後には優秀さ故に敗れてしまうのです。

優秀な大人が、なぜ人間のクズに敗れてしまったのでしょうか?


カイジ v.s. 利根川対決のおさらい(ネタバレあり)

ここでまず、カイジと利根川が争った「Eカード」の戦いを簡単に整理しておきます。

Eカードとは皇帝側と奴隷側に分かれて、「皇帝」「市民」「奴隷」3つのカードを出し合う2人対戦ゲームです。3つのカードのうち「皇帝」は「市民」に勝ち、「市民」は「奴隷」に勝ち、「奴隷」は「皇帝」に勝ち、「市民」と「市民」ならあいこ、三すくみの関係にあります。

画像1

賭博黙示録カイジ9巻より引用

これだけだと単なるジャンケン同様の関係ですが、配布されたカードの構成が平等では無いのが特徴です。

皇帝側は「皇帝」1枚に「市民」4枚、奴隷側は「奴隷」1枚に「市民」4枚のカードが配られます。

皇帝側が奴隷側に勝つには、5回中4回出される「市民」に「皇帝」を出せば良い。ただし奴隷側が皇帝側に勝つには、5回中1回しか出されない「皇帝」に「奴隷」を出さなければいけません。

つまり勝負は圧倒的に奴隷側が不利なのです。勝てるチャンスはたった1回のみ。もっとも、勝てば奴隷側の取り分は大きいのですが。

 Eカードの肝は、利根川の言葉を借りれば「皇帝側のカードを持った者は、市民にまぎれて、いかに皇帝を通すか」「迎え撃つ奴隷側からすれば、いつ皇帝を通してくるかを読み、いかに奴隷を出せるか」。単純ながら奥が深い心理戦です。

勝負は常にお互いが「せーの」でカードを出し合うのではなく、先にどちらかが出し、もう片方が表情を読み取り洞察してカードを出せるように設定されているのも、駆け引きを目的とするからです。

(ここから先は原作へのネタバレが含まれます。先に漫画を読むか、映画を見るのをお勧めします)


…。


……。


………。


Eカードで負け続けたカイジは、「狂ってなきゃ利根川を倒せない」と顔面で鏡を割り、血まみれになって再び利根川と対峙します。そして「カードすり替えもどき」という奇策で勝利します。

まず、机の上に置かれた2枚のEカード(「市民」と「奴隷」)に手を重ねて「何か細工をした」かのような素振りを利根川に見せます。その後で、自身の血をテーブルに飛び散らせます。それからカードを拭くと見せかけて、それぞれに「血の跡」を残します。

そして、皇帝側が利根川、奴隷側がカイジとして最後の戦いが始まります。

1回目、双方が「市民」を提出してドロー。

そして2回目、カイジが提出したカードに付いた血に利根川は気付きます。「血の跡の拭き残し」だと考えた利根川は、「市民」か「奴隷」のどちらかだと分かって、少なくとも引き分けになる「市民」を提出します。

画像2

賭博黙示録カイジ11巻より引用

しかし、実際にはカイジも「市民」を提出していたのでドロー。

3回目、同じく双方が「市民」を提出してドロー。

いよいよ4回目、再びカイジは血の付いたカードを提出します。「市民で奴隷を殺して勝ちっ…!」と意気込んで市民を出そうとした利根川は、ふと考えます。

…気が付かないだろうか、と。

画像3

賭博黙示録カイジ12巻より引用

カイジが何らかの細工を施し、毒を盛ったはずだと考えた利根川は、やがて「何かを細工した」かのような素振りを思い出し、あの瞬間に「奴隷」から「市民」にカードを入れ替えたのだと考えます。

そして、そのことに気付いた自分に安堵し、それ自体が答えであると思い込み、「わしには一歩届かなかったっ…!」と言い切ります。

画像4

賭博黙示録カイジ12巻より引用

血の付いたカードは「市民」だと判断した利根川は「皇帝」を提出します。しかし、すり替えは偽装ですから、カードは「奴隷」。

こうしてカイジは利根川に勝ったのです。


凡人が陥る「代表性ヒューリスティック」の罠

血の付いたカードを見て、思わず「奴隷来い」と叫んだ2回目と違い「気が付かないだろうか」と考えた4回目ですが、まずそのことに気付いた利根川の優秀さに頭が下がります。

普通は気付きません。「血を拭いた跡」という痕跡に、カイジが血をテーブルに飛び散らせた光景を思い浮かべて、だったら市民と奴隷に違いないと決め打ちします。

人はすぐ結論に飛び付こうとします。

頭に浮かんだ「それっぽい答え」の可能性を高く見積もり、その他に考えられる可能性の確率を想定より低く見積もります。こうした現象を代表性ヒューリスティックと言います。

端的に言えば「もっともらしさに引き摺られる」のです。

■代表性ヒューリスティック(Representativeness heuristic)
ある事象が典型的な事例とどれくらい似ているか、代表的な特徴をどのくらい備えているか等をもとにして、その事象の生起頻度や生起確率を判断する。似ている・備えているなら、その事例を過大評価してしまう。

■「代表性ヒューリスティック」の具体例
コイントスで、4回投げて4回連続「表」が出てきました。さて5回目は表が出るでしょうか、裏が出るでしょうか。4回連続「表」なんて怪しいので5回目こそ「裏」が出そうですが、確率的はどちらとも「50%」です。1回ずつのコイントスは独立しているからです。
では、4回投げて4回連続「表」が出る、4回投げて「表・裏・表・裏」が出る、どちらの方が起きる確率は高いでしょうか?
もちろん「どちらも同じ」が正解です。個々の事象は独立していますから、4回連続「表」が出る確率は0.5^4=6.25%です。
4回投げて「表・裏・裏・表」が出る機会が多いと直感的に思うのは、コインは表と裏がランダムに出るので、ランダムに出ている方が「もっともらしい」という思考に引きずられるのでしょう。

通常であれば、数字を集めて計算したり、様々な情報を収集して考えたり、論理立ててじっくり時間をかけて合理的な意思決定が行われます。

しかし全ての意思決定において、それらをやっていると脳が疲れてしまいます。そこで脳は、ヒューリスティックと呼ばれる直感的な意思決定に頼ります。考えるのを止めるというよりか、省電力モードで稼動すると考えれば良いかもしれません。

血の跡が付いていた。ラッキー。これは凡人の思考です。

画像5

賭博黙示録カイジ12巻より引用

秀才はさらに考えます。「血の跡」を手掛かりにするだけでなく、「血の跡」なんてそもそも残すだろうかと考えます。凡人に比べて、疑り深く警戒しやすいからこそ気付けますし、普段からよく「考えている」からこそ気付けます。


秀才が陥る「透明性の錯覚」の罠

「考えている」と「考え過ぎ」の境目はありません。結果が成功か、失敗からの違いです。

精神分析に「投影」という概念があります。心の中で無意識下に抑圧している欲求や感情を、外界の事物や他人などに存在しているように感じてしまうのも「投影」です。

例えば、自分がある人を嫌っていると、確認したわけでも無いのに、その人も自分を嫌っているように感じてしまう。それは自分の感情を投影した結果です。自分の視点だけで物事を見てしまうと、そこにバイアスが生じます。

優秀な利根川は、「血の跡」を残したままにするだろうか、と考えます。

そして「罠を仕掛けた、オレを殺そうと、騙し捕ろうと、このガキ何か策をうった」「わしの失着の一手、迂闊な決断を、息を潜めて待っている」「勝つために手段を選ばぬ卑劣、物も言わず、人の背中を刺す非道」と決め付けてしまうのです。

画像6

賭博黙示録カイジ12巻より引用

これこそ、投影です。

Eカードは心理戦だと説明しました。相手がどんなカードを出すのか、心理を読み合う戦いです。しかし、考えれば考えるほど、相手ならどうするかと考える戦いが、いつの間にか自分ならどうするかとすり替わってしまうのです。

つまり、利根川はカイジの心理を読んでいるつもりで、自分の心理をカイジに「投影」していたのです。

相手が何を考えているのか、相手に聞かずして理解するのはとても難しいものです。相手について分かったつもりになっても、何1つ分かっていないなんてよくあります。特に優秀な人は、優秀さゆえに「他人を理解するなんて簡単だ」と勘違いしてしまいます。これを透明性の錯覚と呼びます。

■透明性の錯覚(Illusion of transparency)
心の中の考えや感情は自分が思うほど外に伝わっていないが、なぜか伝わっていると考えてしまう。また誰かの思考は思っている以上に外からは観察できないが、観察できていると考えてしまう。相手に知られたくない場面でも、相手に知って欲しい場面でも発生する。

■「透明性の錯覚」の具体例
Aさん「久しぶりに大勢の前で話して、ものすごく緊張しました」
Bさん「えぇっ? そんな風に見えませんでしたよ」
という掛け合いは、お互いが本音でそう思っているが、Aさんは「ウソだ。慮ってお世辞を言われた」と思い、Bさんは「ウソだ。堂々とした態度なのに」と思う。どちらも何も理解していない。相手の心の中を読んでいるようで、実際に読んでいるのは自分自身なのです。

 カイジは利根川に「オレが蛇に見えたか?」と聞きます。利根川は「蛇だろうが!」と凄むと、カイジは「そうか…なら、お前が蛇なんだ!」と返します。まさに投影、透明性の錯覚そのものです。

優秀だからこそ代表性ヒューリスティックの罠に陥らなかった。

優秀だからこそ透明性の錯覚に陥った。そして、驕った。

画像7

賭博黙示録カイジ12巻より引用

利根川は優秀すぎるが故に罠に気付き、罠だと判断できた。それ自体が罠なんですが、優秀な人間は自分よりも優秀な人間がいるなんて気付きません。それゆえ罠に嬉々として嵌ったのです。


強者は自らの過大評価する

奢れる者久からず、ただ春の夜の夢のごとし。

平家物語では平家の威張り散らした態度をこのように表現しました。優秀ゆえに地位も名誉も富も手にした強者は、誰も私に叶うわけがないと増長します。自らを過剰評価し、自分自身を理解できていない状態です。

カイジと向き合い、「血の跡」を見破った利根川そのものかもしれません。

仏教用語には「我慢」という言葉があります。一般的に「自分を抑えて耐える」という意味で使われていますが、本来は自分を高く見て他人を軽視する心、自負心が強く自分本位な心を指します。

利根川はカイジと向き合うとき、「自分とは比べものにならないクズ、ゴミ、劣等、低脳」と思い込み下に見下していたのです。だからこそ、血の跡の罠に気付いた自分が、まさか敗れるとは思いません。

そこに油断が生まれます。

人間は、自分自身をそのまま評価できず、過剰か過少にしか判断できないのかもしれません。努力をして積み重ねたとしても、自分なんてまだまだと謙遜するダニング=クルーガー効果が働いて過小評価するか、我慢の心が働いて過剰評価してしまう。

公平に、冷静に見れないのは、自分の心情や感情を抜きにして世界を見れないからです。どうしてもバイアスが生まれるのです。

では、どうすればいいでしょうか。

中世では、権力者は宮廷道化師と呼ばれる「愚者」を雇っていました。本当に狂ったような道化師がいる一方で、批判するために側にいるような道化師もいました。それは自らを過剰評価してしまう権力者を、笑って諌める道化が必要だったからではないかと筆者は推測します。

ただし、この制度も完全ではありません。道化師自体が思い上がってしまう可能性もあれば、道化師の批判に我慢できない可能性もあるからです。究極的に言ってしまえば抜け道はありません。

つまり「油断」の隙をついて、誰もが強者を倒せる可能性があるのです。言い換えれば、油断しない限り強者を倒せません。

まさにEカードの如く5分の1の確率、いやそれよりもっと低いでしょう。しかしながら、何十年、何百年と天下太平の世を続けた組織が数少ないことからも「油断しない強者はありえない」のだと教えてくれます。


最後に書籍の紹介

実は本noteは、以下書籍のボツ原稿です。

本書のメインテーマは「人間の50%はクズである」。誰しもがクズな側面を持っています。それは優秀な利根川も同じ。優秀すぎるが故に、自分よりダメなカイジを見下し、馬鹿にし、自分には到達できない存在と見做したが故に足元を掬われました。

本書では、NewsPicks、堀江貴文さん、血液クレンジング、新型コロナ論争など「なぜか売れている」「なぜかヒットした」ものを対象に、行動経済学や認知心理学観点で読み解くアプローチを試みています。

行動経済学や認知心理学の専門家からしたら「もっと深堀りしてよ〜」と思われるかもしれませんが、最初の一歩としては十分読めるかな、と感じています。発売は7月11日です。

1本書くのに、だいたい3〜5営業日くらいかかっています。良かったら缶コーヒー1本のサポートをお願いします。