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織姫神社:白瀧姫伝説

この地、山田郡と呼ばれていた頃、和銅7年(714)には「あしぎぬ」を奈良平城宮に献上していたと、『続日本紀』に載っているそうだ。その頃には既に、ある程度の養蚕は行われていたようだ。さらに都から、最新技術を持った白瀧姫が嫁してきて、最新の養蚕法や機織り機などの技術と知識を広め、この地を豊かにした。

子供の頃から聞かされていた「白瀧姫伝説」、たしかな記録は無いが、若干の、イヤ激しい思い込みを込めて書いてみたい。

参道を上がる

山田郡の山間部、今の桐生市川内町は、品質の悪い「あらぎぬ(あしき絹)」をほんのわずか収めている貧しい村でした。税負担の代わりに、村の若者が京のお公家様の屋敷に、1年間の下働きに行くことになりました。

山道を登ると正面に本堂、右に手水舎、左に降臨石

時は大伴家持らによる『万葉集』の編纂がなって間もなくの頃、空海が唐の都から密教や多くの経典、仏具類を持ち帰った頃でした。

ある公家の娘が女官として宮中に使えることになりました。この娘、家では白瀧と呼ばれていましたが、たいそう美しい女性で、頭も良くて好奇心も旺盛で、帰朝したばかりの空海を捉まえては中国の話を聞いていました。この時に多くの最新技術を学びました。養蚕技術や織機の制作やうどんなどの食品加工までも学んだようです。

山田郡の某は下働きをしながら、遠目に白瀧のこうした生き生きとした姿を見て、恋に落ちました。恋に落ちたと言っても、お公家様の大切な可愛い娘と山奥の貧しい農家の男では、余りにも身分が違いすぎます。

男の恋い焦がれる気持ちは高まり、ついに恋する気持ちを和歌に託して、白瀧の通る頃を見計らいソッと廊下に置きました。それを見つけた白瀧は、その見事な和歌に対して即座に返歌を書いて置いておきました。白瀧には男の正体も分からないまま、こうして互いに和歌を交わすようになりました。

やがて男は年季が明けて、村に帰らなければなりません。その思いを伝えると、白瀧も男の正体を知りたいと思い、とうとう下働きの者と分かりました。

白瀧伝説に残る歌があります。互いの気持ちを詠み交わしたとされています。

水無月の いなほの露も こがるるに
  雲井を落ちぬ しらたきのいと

雲井から ついには落ちるしらたきを
  さのみなこひぞ山田男よ

白瀧神社縁起より

二人の気持ちは互いに交わした和歌によって、すでに固く固く結ばれていました。もちろん白瀧の親は大反対をします。それでも二人の決意は固く、とうとう時の天皇の耳にも届き、天皇の許しを得て結ばれました。

白瀧の得た最新の知識と技術、そしてまだ伝わったばかりの織機も携えて山田郡へと下向されました。

この地で大いに養蚕の近代化を進め、優秀な絹を生産するようになりました。また織機も近在にも広めて、絹織物の生産にも勤めました。すぐにこの絹織物の素晴らしさは都にも伝わり、村人は都に労役で行くこともなくなり、大変に裕福になったそうです。

また空海の故郷と同じ様に、白瀧もこの地でうどんの技術も教えました。このうどん食が、陰で養蚕や織物生産に貢献したと思われます。

うどんが伝わる前は、どの様な食事だったのかは分かりません。雑穀や麦米などを、時間を掛けて煮ることよりも、粉に挽いて練り紐状に伸ばして煮ることにより、短時間で出来上がり、消化にも良かったでしょう。働きながら短時間で食事を済ますには、煮込みうどんは最適だったと思います。

この辺りの名物として、「おっきりこみ」と「ひっつみ」が有ります。「おっきりこみ」は、大きな鍋に野菜を煮て、その中に切りたてのうどんを茹でずにそのまま入れます。たぶん当時も同じだったと思います。味付けは醤油などはまだ無く、塩や白滝が都から伝え教えた味噌くらいだったでしょう。今の「おっきりこみ」と違い、粉もムダにせずトロリとしたものだったでしょう。

「ひっつみ」は更に簡単なもので、鍋で野菜を煮ながら、練ったうどんをそのまま、切らずに手で千切って入れるものです。中国の麺料理に「猫耳」というのがあります。イタリアにもオレッキエッテ(耳たぶ)というパスタがあります。「ひっつみ」はそれよりも簡単で、ただ適当に千切るだけの「すいとん」です。

この粉食文化の普及も、この地の人々に労働の中に楽しみを与えたことでしょう。「西の西陣、東の桐生」と言われるようになった今でも、絹織物と共に粉食文化は守られ伝わっています。うどんも有名ですが、うどんを守るために群馬県では小麦の品種改良にも努め、美味しい小麦の生産も盛んです。うどんが有名になったのも、長い伝統の粉食文化をささえた品種改良もあったのでしょう。

巨大な岩、降臨石にも不思議な言い伝えがある

この日、みどり市の高津戸峡宝徳寺崇禅寺も紅葉狩りで、大変な人出で、平日にもかかわらず駐車場が満車でした。

同じ川内地区にありながら、こちらの白滝神社はひっそりとしていました。

降臨石

白滝神社の降臨石は、むかし七夕の頃に織姫星から飛んできたと伝わっています。耳を近づけると、岩の中から機織りの音がしたそうです。ある日、近在の子供が履いていた下駄を投げつけると、機音が消えたと伝えられています。

本殿
御朱印。書き置きで、料金を箱に入れて自分で取るようになっている。
御朱印と神社の由来や白瀧姫の物語
正面右が仁田山

白滝がこの地について周りを見て、あれは我が故郷の山に似た山である、と言ったそうで、仁田山と名付けられました。はるか東国の辺境の地に嫁ぎ、あの山を見ては故郷を思い出していたのでしょう。

やがて絹織物が盛んになると、「仁田山紬」と名付けられました。


ここからは余談になります。

天下分け目の大いくさ、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦に臨み、徳川家康は旗絹を注文します。これに対して、わずか一日で二千を超える軍旗を収めたそうです。この旗指物を掲げ、家康は関ヶ原に臨み、大勝利を収めます。

この功績に家康は大いに喜び、大変に縁起の良い旗絹であったと、江戸幕府の直轄領となり、更に絹織物は発展しました。この技術が明治新政府の殖産産業の礎となり、明治以降の日本経済を支えてきました。

白瀧姫が伝えた養蚕と機織りが、今の日本の基礎を築いたと言えるかもしれません。


更に余談となりますが、時代はちょうど万葉集編纂の少し後です。貧しい農家の男が、公家の娘を感激させるほどの和歌を詠み、書いたということに、以前は大いに疑問を抱いていました。これがまさに伝説だと。

ところが『万葉集』には、多くの東国辺境の人々や防人の歌も選ばれています。当時の役人が命により、多くの名も無き者の詠んだ歌を集めて都に送りました。その中の半数が大伴家持らが選んで『万葉集』に収めました。当時はまだやっと中国の漢字が導入されたばかりで、和語に対して漢字の発音を当ててるだけでした。にもかかわらず、庶民の詠んだ歌の半数が選ばれたということは、たいへんに和歌を詠む文化は普及されていた事になります。

言葉を書き表す文字が無いと、文化では無いという意見もあります。しかし日本は世界でも最も早くから、既に3万年前には石器を使い始めています。三内丸山遺跡には、南国にしかいない貝を加工した腕輪も残されています。沖縄から北海道、一部朝鮮半島にまで交易が行われていたようです。たとえ漢字が無くても、和語は何らかの手段で全国に普及され、日本文化も築かれていたと思います。

山奥の男と白瀧の伝説からも、和語の持つ、今に伝わる和歌の素晴らしさを感じます。直接的な表現を控え、和歌を詠んで柔らかく伝え、それを受けた人も理解し合える。相手の気持ちを察する事が出来る、日本人特有の心根、精神は既に白瀧姫の時代には成立され、いわゆるDNAには刻まれていたように思います。

本殿前に置かれた御朱印、誰も見て無くても、キチンと初穂料を納めています。古い物や売れそうな物があると国外に持ち出し、売ってしまうなどという事は、日本人の根底には無いのでしょう。人々が守り伝えてきた事柄に対して、手を合わせ、大事に次の人と時代に受け継いで行こうとする、そういう日本に日本人として生まれた事に誇りを抱ける、そういう清涼とした気持ちになれる神社でした。

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