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ネグレクトの原因

数日前に娘が来て、二人の子どもを育てるのに、あまりにも個性が違いすぎて迷うことが多いと言ってた。個性を伸ばしながら、子供の方向性は親が決めないように、好きなことが解ったときには遅れないようにと、いろいろと考えているようだ。手出し口出しを抑えるのが、もっとも大変らしい。

それと共に仕事を持つ自分自身の時間も取れず、家事でもしなければならない事や、より学ばなければならないことが多くて、時にはイライラしてしまうとか。

卒業以来ずっと保育園勤務だけで、乳幼児から成人するまでの長い期間を通じて、ともに考えなければならないなど、多くの人達と拘わってきた。大勢の成長する姿を見てきたから、方向付けをするよりも個性を伸ばしたいと考えるのだろう。


その話しの中でネグレクトや幼児虐待の話題になった。保育園勤務では、こういう事に気付くことが多いとか。端から見てて子供が好きなのに、何故か育児放棄をしてしまう。自分の趣味や好きなことに走り、全く子供に関心の無い親も居るとか。

親の育った環境や躾、経済環境や教育レベルの差でも起きるかもしれない。ただ育児放棄ということに関しては、子供を育てる本能は視床下部にあり、そこのスイッチが入るためには、胎児の時に子宮内でプロラクチンを受け取らなければならないというのが最近の研究結果でもある。

胎児期に脳内環境ができあがる過程で、母胎からの適切なドパミンーPRLシグナルを受けていないと、成長して子供を育てる行為が起きなくて、育児放棄になってしまう。

1. 将来、育児をするか?しないか?は、そのマウスの胎子期に決定する。
2. 妊娠時、プロラクチン分泌が少ない母親から生まれた子は将来ネグレクトに なる可能性が高いが、プロラクチンを投与したネグレクトの母親から生まれ た子は、将来ネグレクトを回避できる。
3. 胎児期の神経内分泌環境は将来(次世代)の育児行動の形成に重要である。

育児放棄(ネグレクト)の原因を解明:高崎健康福祉大学 下川哲昭教授

他にも視床下部には、危険回避や快楽追求などの部分もある。こちらはネグレクトよりも虐待行為を起こしてしまう。視床下部に危険回避などの、自分自身を守ろうとするホルモンが出る。育児よりも、自己防衛が働いてしまうようだ。

下川先生の講義を拝聴する機会があり、この事はとても興味が有り、以前調べてメモをしてたのに、何処を探しても見つからなかった。どうも自分の興味は次から次へと変わってしまい、まともなのがないようだ。

要は自身の危険が迫ると、子育てよりも危険回避行動が優先すると言うことらしい。最近ニュースで見るようになった、新たな男性関係でネグレクトや児童虐待になるとか。これも自分自身の快楽が優先され、自己の快楽の邪魔、妨害という子育てに対して攻撃的になるのかもしれない。一種の自己防衛と捉えてしまうのか。

周囲の心ない言葉も、精神的に親を追い詰めて、自己防衛に走らせてしまうのではないか。と、考えたこともあった。

全くのネグレクト、育児行動が起きないのは、ドパミンーPRLシグナルに関係してるらしい。俗に胎教と言うが、胎児期には一生を決めるような視床下部の形成がされる。この時にドパミンーPRLシグナルを受け取らなければならない。一概にネグレクトだと、子供を餓死させたと、母親だけを責めるのはどうなのか。

親がネグレクトであっても、あるいは追い詰められてのネグレクトや虐待は、周囲からは気付くはずで、子供の保護と共に親のケアは大事ではないか。どの様な状況でも、親は子供を守りたいはずで、それが出来ないと自分自身を責めることは、二次被害とも思える。


ところで下垂体前葉から分泌するPRL(プロラクチン)だが、乳汁の生産を行うとともに、排卵の抑制をして育児中は次の子供を生まないようにしてる。下垂体後葉から分泌されるオキシトシンは、乳房の筋上皮の収縮を促し、射乳を刺激する。

このオキシトシンは幸福感を感じる「愛情ホルモン」ともいわれ、幸福感や信頼感、嬉しい楽しい気持ち良いなどの感情で分泌が増す。家族や恋人や友人とのスキンシップなどで分泌量が増えて、肌つやが良くなり髪の毛の艶が出たり、可愛らしい表情になる。女性が恋愛や幸せな結婚をすると綺麗になるというのは、オキシトシンが増えるかららしい。

子育ては母親だけではなく、男性も参加すべきであるが、子供に対する愛情や子供が好きという感情は、男性にはあまり無いと言われている。男性と女性との性差は、子供に対する感情の違いもあるようだ。女性は本能的に平和主義で子供を愛することが出来るが、男性が我が子を可愛いと思うようになるのは、性行為とパートナーの出産という過程を通して培われるそうだ。

ここでは関係ないことだが、物心付いたときから女の子達に囲まれて育った。ままごとなどの遊びを通して、お人形の赤ちゃんを背負ったり、遊びの中で奥さん役の子を大切にした。個人的には子どの頃の、こんな事が実際の子育てにおいて苦痛に感じなかった要因ではと思っている。遊びの中で、オキシトシンが出ていたのかも・・・なんて。


育児は本能的なもののように思えるが、ホルモンが関係してたとは、人体の不思議を感じる。育児よりも親としての修行は、成人するまでの子育てだろう。例え親であっても、個性を的確に捉えて子育てするのも楽ではない。実は子育てを通して、自分自身も成長できたと思えることも多かったのだが。

昔の家族関係であるなら、ジイちゃんバアちゃん達は、孫や近所の子供達の子育てにも参加していた。いつからか核家族とか言われるようになり、孫の子育てには口出しが出来なくなった。さらに様々な面での格差が拡がり、親自身が役割を過大に考えすぎて、自分自身の自己防衛として、子供への攻撃になってしまうと思える事もある。

子育てとかネグレクトとか児童虐待とか、少子化問題などに対しても経済的支援ばかりが議論されている。実際に二人の子どもを育てた経験から、それだけで問題解決には成らないと思う。様々な地域の取り組みとして、育成会や子供会があるが、こういう行政などの旗振りの前に考えるべき事は多い。


簡単に「ネグレクト」の一言で片付けられるのか、本当の原因はもっと大きな社会問題、親を苦しめる経済や環境などにあると思えるが。高齢者を社会資本として捉えれば、親の出来ない部分を担い、補助する体制も取れるのではないか。などと、偉そうなことを思ってしまう。

高齢者の中には、子育てに拘わりたいと思っている人は多いようだ。習い事や進学問題など、むかしとは違う考え方に変化し、参加できないで居るように見える。もっとも大事な部分では、経験者の手助けは必要と思うが。

子育てだけではなく、高齢者の在宅介護や看護など地域包括ケアシステムの構築にも、積極的に高齢者の能力や知識を活し利用すべきと思うのだが、理想論過ぎるかな。年取ると孫達との関係は「来て嬉しい、帰って嬉しい・・・」というのも本音であり、四六時中、元気すぎる孫との付き合いは体力的に無理もある。

核家族化、などと括らないで、柔軟な形態の変化で応援できることはないか、高齢者自身も考えるときが来たのではないかとも思う。

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