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古典で暇つぶし

古書店で、わずか1,000円で『新日本古典文学大系 方丈記 徒然草』が手に入った。けっこうくたびれた様子なので、遠慮なく線引きや思いつきなど、書き込みも出来そうだ。

最近、学ぼうという意欲がなくなり、むしろ書くという行為で吐き出したくなる。少しばかり長生きが過ぎたようで、いろんな事を見過ぎたようだ。見るだけではなく「万事休す」、煮て喰おうと焼いて喰おうと、後は好きにしろ。そういう場面を何度も経験してきた。よくぞ今まで生き抜いたと感心する。


さて、迷うことの多い老後の余生だが、暇つぶしに『老子』と『六韜』を学びたいと思っていた。これはむかし読んでいて、子供の頃にジイに教えられた話しと似ていて興味を持った。現代語訳は何種類かは読んだが、あらためて柴崎保三著『黄帝内経素問霊枢』のような、字句分析からの読み方をしてみたかった。『文選』にも興味が有ったけど・・・。

ところが何とも、いざとなると、中国語辞典や漢和辞典といった類いの物を、いろいろと開くのが面倒になってきた。面倒と感じることが、高齢者特有の、第一に現れる性格変容らしい。実際、面倒で面倒で・・・、電子辞書さえ面倒で。

ならばと、note に参加したからには、随筆らしきモノを書こうと『方丈記』『徒然草』『枕草子』を開いた、のだが。これもかなり面倒なことで、古語辞典を開いていると眠くなる。万葉仮名で書かれた『万葉集』に比べ、厳密な研究でもなければ、現代の漢字や平仮名にもなってて、しかも句読点や段落まで付いて、下の校注を参照すれば読めなくもない。古語辞典を使わず、何となく読めるし意味も解る。

読んで意味が解るで終わらずに、それを書き残したかった時代背景を想像し、嫌々でも生き続けた自分の経験から、書かれた裏の事情を推理して楽しもうと思う。例えば山上憶良が子を思う和歌の背景には、古代よりの名門臣下が、しだいに藤原家の勢力に飲まれ消えていく運命を暗示し、行く末を想っての和歌である。そう思うと、詩文は推理小説になる。

本を拡げて細かな文字で目を酷使するよりも、饅頭を食べ、コーヒーを飲み、鳥の声を聞き、時には音楽を楽しみながら、空想の世界に遊ぶ方が楽だ。

以前の記事でも書いたが、読んだ意味以上に、古典には隠された秘密がある。その意味を探ろうとすると、現代に起きてる事とさして変わらないことが多い。そして古典の良さは、文章が短いのが良い。しかも研究ではないのだから、自由に想像の世界に遊ぶことも出来る。

うちなびき 春さり来れば 久木(ひさき)生(お)ふる
 片山かげに 鶯ぞ鳴く (春ー6)
この源実朝の『金槐和歌集』などは、藤原定家が和歌の指南なのに、パクリだらけで面白い。

以下の万葉集二首、本歌取りというよりも、パクりに見えてしまう。
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる
 清き川原に千鳥しば鳴く (6-925)山部赤人
うちなびく 春さり来れば 小竹(ささ)のうれに
 尾羽うちふれて 鶯なくも  (10-1830)詠み人知らず
何故、ここまでのパクリを許したのか、後世に残したのか。天下大一位の和歌の大家、名門貴族の藤原定家が、武士の頭領源実朝の和歌の師匠であった。おもしろい。

古典を読むと、現代小説と違い、ハッキリとした意思表示がなされていない事が多い。言えない時代だったのかもしれないが。その隠された意味を考えるのも、また一興かなと思う。

自分自身に起きたことや、友人知人の身に起きて如何に対処したか、今の社会状況のような出来事をどの様に捉えたか。その推理も面白い。一字一句を精緻に分別するよりも、読んでると様々なことが思い浮かんでくる。年金暮らしの素人の遊びとしては、これ程安上がりな時間つぶしなど他にはないだろう。

人生のふり返りの一助としても、激動の時代の中にあって、如何に生きたかを書いてある古典の随筆を読んでみたい。どうせ暇なんだから。コーヒーを飲みに来るたびに、角田課長に言われなくても良いような、如何にも真面目ぶった暇つぶしをしよう。

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