老眼。とかいうな〜。ささやかな抵抗。
最近、本当に見えない!
近くが見えない。
集合写真とかラインで送ってもらっても、自分がどこにいるのかもわからない。画面を拡大&拡大&拡大して、ようやく見えるか。
あ、そうそう。あの時、この辺りに自分立ってたよね。(記憶も曖昧)
これはいわゆる、
老眼。
もう細かい物は見なくて良い。
という事だよ。と教えてくれた先生がいた。
なるほど〜。
歳を重ねる事が尊く聞こえて心地良い。
というのに、自分で老眼と言った瞬間からズンっと残念な気持ちになってくる。
どうやら私には、「老」と言う字にどうにもネガティブな先入観が染み付いている模様。
老いる事に何とか尊さを感じたい。だって、決して安穏と生きてきた訳じゃない。一言では言い表せない程、実に様々な事に遭遇し、泣いて泣いて叫んで泣いて、少し笑っての繰り返し。
この時間を老いで片付けたくない。何としても、自分を良く評価したい。(他人からという事ではなく)
だから、言い換えてやるのだ。
老眼ではない!
何としても言い替えたい。もっと良いニュアンスなやつに。お茶をすすり、空を見上げながら思索する。
お疲れ様眼、略して、様眼
頑張り眼 → 頑眼
熟した眼 → 熟眼
見えなくてOK眼 → OK眼
もういいやん眼 → も眼
うーん、いまいちピンとこない。
なんだかな〜。
週末の朝に、全くスピード感の無い、ゆるい思考をしている当たり、なんか老いを感じるよね。これぞ老いだよね。しょうがないよね。
そもそも、老いのイメージを私が変えれば良いだけの話じゃないか?というオチ。なんと無駄な時間を使い無駄な記事を書いているのだろうか。
しかし、老眼は大切な事を知っているのだ。
無駄な時間こそ、実は生活の潤いである事を。
今日もふにゃ〜と軸のないヘタったぬいぐるみのような脱力感で、かも不可もない1日を目指したい。
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