見出し画像

お念仏って何?

浄土宗という宗派

浄土宗という宗派は、「お念仏を唱えましょう」というのを大切にしています。
お念仏っていうのは「南無阿弥陀仏」「阿弥陀仏」という仏様のお名前をお唱えすることなんです。

南無阿弥陀仏とは

「南無阿弥陀仏」って何なのかというのをご説明させていただきます。
仏教はインドのお釈迦様というお坊さんが広められて、中国から日本に伝わってきました。
インドの言葉を中国で訳されて、今、日本ではその中国語に訳されたお経を読んでいます。
この「南無阿弥陀仏」をそのまま日本語に訳すと、「南に無い阿弥陀という仏」となるのですが、このお念仏はインドの言葉を中国語に訳すことをせず、そのままインドの言葉を発音だけで漢字に訳しているのです。これを音写と言いますが、インドの言葉「ナマス ア ミター」を似た音の「南無 阿 弥陀」と、音だけで訳したのがお念仏です。

漢字には意味が無い言葉

 この音だけで訳した言葉(音写)は、日常的にも使われています。
例えば、インドの言葉で「ダーナ」という言葉があるのですが、これも音写されたものを私たちは普段から使っています。
「ダーナ」の意味は“布施をする人”という意味があるのですが、音写するとどのような漢字になるのか・・・「旦那」という言葉。働いてきた給料を家族などに施す人ということからこの「旦那」という言葉が、「ダーナ」の音写として使われています。

南無とナマステ

さて次に、「ナマス ア ミター」は何を表しているか、どんな意味があるか。「ナマス」は“心から信頼する、お任せする”と、敬うような意味があるそうです。
「ナマス」に「テ」をつけると、インドの挨拶になりますね。
「テ」は“あなた・相手”という意味があって、「あなたの事を信頼し敬っていますよ」という意味になるのだそうです。じゃあ、「南無阿弥陀仏」は何に信頼し敬っているのかというのは「阿弥陀」という仏様です。

阿弥陀とは量ることが出来ないもの

次に「ア ミター」というのは、「ア」は打ち消しの意味があるそうで、“不可”と訳されることが多いようです。
「ミター」は“量(はかる)”という意味です。長さの単位メーターの語源がこのミターだそうですが、「ア ミター」は“量ることが出来ない”と直訳されます。
“量ることが出来ない仏様を心から信頼し敬う”という意味になります。
 よくよく考えると私はものすごく沢山の“いただきもの”があって、今の自分があるのではないですか。

量ることの出来ないほど沢山いただいている私

 よく説かれるお話ですが、私にはお父さんお母さんがいて、そのお父さんとお母さんにもそれぞれお父さんお母さんがいて・・・・と遡ってくいくと計り知れない人(先祖)が自分にいてますね。
過去だけでなく、今現在も、水や空気や土や生き物(植物、動物)があります。空気などの縁がなくなれば私は生きていけない訳(窒息しますね)ですし、過去の先祖さんが1人でも欠けると、もしかすると今の私は無いのかもしれない。
このように考えると量り知れない“いただきもの”が私にあるのです。そこに手を合わすのが「南無阿弥陀仏」という意味になってきます。


でもどうでしょうか、そんな当たり前のことを今更言われなくても、みんな分かっていることです。空気や水がなかったら生きていけない事や、お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんがいたから自分がいることぐらいは、当たり前のように分かっているんです。

当たり前すぎて気づかないこと

 私は結婚をしておりまして、妻と2人の子供がいるのですが、私は京都の浄土宗の総本山である知恩院の職員として勤めてもいます。
知恩院の勤めが無い日にお寺のこ法務をしているので、家事などの家のことは妻に任せっぱなしなのです。こんな生活が来年で10年になるのですが、10年も続けていると、妻に洗濯や掃除などしてもらうのが当たり前になってくるんですね。でも今の生活が継続できているのも妻がいるからなんです。知恩院に勤めるのも、お寺の法務ができるのも妻が家のことをしてくれているからということは、分かっているのですが・・・これがなかなか言葉などの態度に現れないですね。なんでなんでしょうねぇ。

愚痴という煩悩

 自分には様々な働きかけがあって、そのお陰で大きく言えば、生きることが出来ていて、小さく見ると日常が送れています。そんな当たり前に分かっていることでも、当たり前過ぎるせいなのか、感謝する心はなかなか起こってきません(私も頭ではわかっているんですよが)。


 こんな経験はありませんか。
旅行に行く日に家から外に出ると、雨が降っている。
「なんで旅行いく日に雨降るねん」
と、愚痴が出たことはないですが?
もちろん、自分が出掛ける日は必ず晴れ!にはならない事ぐらい皆分かっているのですが、愚痴が出ませんか。
これを仏教で言うと、煩悩の1つ“愚痴”があるからだと説かれています。
漢字を見ても、“愚かで知識が病にかかっている”と書いてあります。分かっているけれど、その分かっていることが病にかかったように苛立ちなどを起こします。

お念仏は愚者の自覚

 沢山のものをいただいている私であるにもかかわらず、有難いこととは受け取れない、当たり前と愚痴をこぼしている私達ではないか、と気づかせていただくことがお念仏の意義です。


ついつい周りと比較すると、
あの人あんなにも贅沢に過ごしている。
この人はこんなにも苦労をしている。
周りを見ると、また、上を見ても、下を見てもキリはないかと思います。
だからこそ、仏様と向き合いながら、仏様のお名前「南無阿弥陀仏」と唱え自分を省みる。それもお念仏の大切な心です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?