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韓国クィア映画の過去、現在、未来(翻訳)

 米国在住の韓国映画研究者Kelley Dongが韓国クィア映画の歴史について記した記事「Queer Korean Cinema」を翻訳して紹介したいと思います。

韓国映画とクィア

 韓国映画研究者Jooran Leeの2000年の論文「Remembered Branches: 韓国同性愛映画の未来に向けて」は、次のような一文で始まります。

 韓国のゲイ&レズビアン映画を論じることは日光も酸素もない空間を漂うようなものです。そのような映画を探すのは暗闇を手探りで歩くのに等しく、結局ほとんど徒労に終わってしまうのです。

 韓国では同性愛をテーマにした映画の公開が当局により禁止されていました。『ブエノスアイレス』(1997)は学生が字幕をつけてゲイバーやナイトクラブなどで隠れて上映され、『モーリス』(1987)が劇場公開されたのは2019年のことでした。国際映画祭での上映や国外での劇場公開が少ないため、韓国クィア映画は韓国に住んでいない人にとってはあまり知られていないかもしれません。

 女性同士の性行為が描かれた最初期の韓国映画のひとつとされるハン・ヒョンモ監督の『嫉妬』(1960)は、フィルムが現存しません。保守的な一家に生まれた男性が同性愛的指向に気付くパク・ジェホ監督の『明日に流れる川』(1996、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映)や、1996年に34歳で亡くなったイ・フン監督の『マスカラ』(1995)といった映画は、現在ではほとんど振り返られることはありません。

 こうした映画へのアクセスが困難なため、研究者にとっては何が韓国クィア映画か分類するのは骨の折れる作業となります。例えば画面内に同性同士のハグ、キス、告白が出てくればそれと分かりやすいのですが、多くの場合そういった直接的表現によっては心の奥底の部分は語られないものです。

※注:『マスカラ』はトランスジェンダー女性のハ・ジナが主演し、イ監督の親友でありライバルであったパク・チャヌクが出演しています。著書『パク・チャヌクのモンタージュ』(キネマ旬報社、2007)の中でイ・フン監督に多大な影響を受けたことを告白しています。

これまでの韓国クィア映画

 2021年2月に開催された韓国映画アーカイブの特集上映「隠されたクィア映画を求めて」は、1996年以前の韓国クィア映画を紹介するプログラムでした。プログラマーのイ・ドンヨンは過去のクィア映画を型にはめて理解するだけでは本質を見誤ると述べています。

 『浜辺の村』(キム・スヨン監督、1965、国際交流基金プログラムで上映)の未亡人同士の共感、『花粉』(ハ・ギルチョン監督、1972)のパゾリーニ的なサイコセクシャルな五角関係、韓国映画で初めてインターセックスのキャラクターを描いたとされる『サバンジ』(ソン・グァンシク監督、1988)の快楽描写など、典型的なクィア映画にラベリングされない多様な映画が紹介されました。

 1960年代後半に制作された"ジェンダー・コメディ"のひとつであるシム・ウソプ監督の『男子と妓生(キーセン)』(1968、国際交流基金プログラムで上映)は、青年が女装することで女性と男性の双方を魅了する人格を手に入れますが、その曖昧な関係は家父長制に引き戻されることで終わりを迎えます。

 こうした"ジェンダー・コメディ"の流れを引き継いでいるのがイ・グァンジェ監督の『パパは女の人が好き』(2009、韓流シネマフェスティバルで上映)だといえるでしょう。トランスジェンダー女性のジヒョンの前に性別移行する前に作った息子が現れ、かつらとヒゲをつけて父親として振る舞うというコメディです。

クィア・アナーキズム

 もっとも、こうした大衆的なコメディ映画は社会的な承認と引き換えに理解しやすい「クィア像」を要求するものです。そのカウンターとして2000年頃「クィア・アナーキズム」とでも呼ぶべき反抗心と政治性を持つ映画も現れました。

 3Pの性交シーンが物議を醸したキム・ユミン監督の『イエローヘア』(1999)に登場するゲイのノマド、キム・インシク監督の『ロードムービー』(2002、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映)に登場するヒッチハイカーたちは、社会に包摂されることを拒否し、感情を爆発させ、ときには性愛のために人を殺すといった反社会的行為に及びます。

 韓国で初めてゲイであることをカミングアウトした映画監督であるイソン・ヒイル監督の『後悔なんてしない』(2006)では、2人の男性が暴力により互いの欲望をぶつけ合った末に恋愛感情を抱きます。

 こうした映画は意外なことに社会に受け入れられました。『ロードムービー』は青龍映画賞新人監督賞・新人男優賞など多くの賞を受賞しました。『後悔なんてしない』は「Regret-heads」と呼ばれる多くの女性ファンを獲得し、大きな興行収入を挙げました。しかし皮肉なことに、映画の成功によってかつては目新しい表現とされたものが陳腐な表現となっていったという面も否定できません。

 パク・サンヨンの小説『知られざる芸術家の涙とザイトゥーンパスタ』(2018、未邦訳)では、LGBT映画祭で評論家と会食するゲイの監督が次のように言うシーンが出てきます。

 オ監督の新作が賞を取ってたけどあれはひどい映画だな。なんでセックスした後に泣いてるんだよ。男同士でヤるのが好きな奴らがヤった後に泣くなんておかしくないか? きっと彼らにとって同性愛者は奇妙で悲しいセックスをする人間の集まりなんだろう。陽気な同性愛者は想像できないし、もし会ったとしても作り物だと思うんだろうな。

2010年代のクィア映画

 一方でクィアな女性を描いた2010年代の韓国映画はより内面を追求する傾向が見られます。ハン・ガラム監督の『アワ・ボディ』(2018、大阪アジアン映画祭で上映)では学歴社会におけるアラサー女性同士の共依存関係が描かれます。

 チョン・ジュリ監督の『私の少女』(2014)では警官として少女を家に泊めるというプライベートとパブリックの狭間の微妙な心の動きが描写されます。

 キム・ボラ監督の『はちどり』(2018)における同性の友人や女性教師に対する複雑な感情は、人間関係を緻密に描写した結果生まれたものです。キム監督は「バイセクシュアリティが存在する、だから描きました」と語りますが、主人公は自分のことをバイセクシュアルだと意識しているようには描かれません。

 イム・デヒョン監督の『ユンヒへ』(2019、コリアンシネマウィークで上映)は異性愛の背後に隠れて見過ごされてきた物語に焦点を当てています。シングルマザーであるユンヒの娘セボムは、母の初恋の相手が日本人女性のジュンであるという秘密を偶然知り、2人を再会させようとします。映画はユンヒの新しい人生が始まるところで幕を閉じます。彼女は仕事を辞め、離れた街に移り住み、写真家という若い頃の情熱を再び取り戻します。カール・テオドア・ドライヤー監督の『ゲアトルーズ』(1964)のように、ユンヒは後悔をやめ未来に生きることを決めたのです。 

 イム監督は青龍映画賞のスピーチでこう語りました。「『ユンヒへ』はクィア映画です。観客の中にはこの作品がどのような映画か分からない人もいるかもしれないので、あえてこの言葉を使います」。

 このような映画は韓国の伝統的な家父長制から内面的に独立することの重要性を描いていますが、こうした変化は韓国におけるフェミニズム運動の隆盛に影響を受けていることは明らかでしょう。ただ、女性が主体となって映画を制作する「シネ・フェミニズム」は、時にトランスジェンダーへの偏見を可視化することにも繋がりかねません。

 イ・ジェヨン監督の『バッカス・レディ』(2016、ハートアンドハーツ・コリアン・フィルムウィークで上映)や、チョ・ヒョンフン監督の『夢のジェーン』(2016)のトランスジェンダー女性のように、脇役として女性主人公をサポートをする役割に留まるものもあります。特に『夢のジェーン』では、トランスジェンダー女性が孤独なシスジェンダー女性の心の穴を埋めるための一種の道具として描かれています。

クィア映画と性行為

 男性のまなざし(male gaze)を脱構築しようとする試みは、フェミニズム的な方法で性行為と性的快楽をどう撮影するべきかという理論的な問題に直面します。イ・ヒョンジュ監督の『恋物語』(2016、東京フィルメックスで上映)では2人の女性は光に包まれながら衣服を着た状態で同意の上で穏やかな性行為をします。手持ちカメラのクロースアップでは行為の様子が直接的に映されることはありませんが、『恋物語』はその主題からR18+指定を受けました。

 パク・チャヌク監督の『お嬢さん』(2016)で物議を醸した性行為のシーンはより露骨です。この場面は女性のスタッフだけで撮影され、回転式の遠隔操作カメラを使用した印象的なものでした。男性を喜ばせるための無意識的な演技とは対照的に性的快楽のみを目的とする性行為の悦楽がありありと描かれています。

 なお、イ・ヒョンジュ監督は性的暴行で有罪判決を受けると共に撮影現場でのセクハラを告発され、映画製作から引退しました。『後悔なんてしない』のイソン・ヒイル監督や『夢のジェーン』のチョ・ヒョンフン監督もセクハラを告発されています。こうした問題は韓国映画を語る上で忘れてはならないことです。

ドキュメンタリー・短編映画

 ドキュメンタリーや短編映画は、長編映画に比べて海外での注目度こそ低いものの韓国では根強い支持を得ており、ソウル国際プライド映画祭、韓国クィア映画祭、ソウル国際女性映画祭、ソウル・インディペンデント映画祭といった場で上映されています。

 1997年に開催されるはずだった第1回ソウル・クィア・フィルム&ビデオ・フェスティバルが韓国軍によって開幕前日に中止させられた頃とは時代が大きく変わりました。スタジオシステムからの独立と自主映画の活発化により、多様なLGBTQ+の人たちが画面の中に登場するようになりした。

 短編映画としては、高齢の同性愛者のロマンスをテーマにしたソ・ジュンムン監督の『蛍の光』(2008、アジアンクィア映画祭で上映)、兵役に就きたいトランスジェンダーのダンサーが主人公のコメディであるピョン・スンビン監督の神の娘のダンス(2020、ショートショートフィルムフェスティバル&アジアで上映)などがあります。

  近年の韓国のクィアドキュメンタリーは被写体とのジャーナリスティックな距離を保ちつつ政治的なコミットメントを有するのが特徴です。

 韓国で初めてゲイを扱ったドキュメンタリーといわれるイ・ヒョクサン監督の『鍾路の奇跡/チョンノの奇跡』(2011、アジアンクィア映画祭で上映)、ゲイ男性のコーラスグループを描くイ・ドンハ監督のWeekends』(2016、自主配給による上映会を開催)などが挙げられます。

 1950年代の一時期、韓国では男性役も含めすべての役柄を女性が演じる「ヨソン・グック」(女性国劇)という大衆演劇が流行しましたが、現在ではほぼ消滅しています。キム・ヘジョン監督の『The Girl Princes』(2013)はこのヨソン・グックの演者たちのその後を追ったドキュメンタリーです。また、クラウドファンディングで制作されたドキュメンタリー『DRAG x 남장신사』(「Gentleman Dressed as a Man」)はドラァグキング・ミュージカルに出演する4人の高齢のクィア女性を描いた作品です。

 チェ・ヒョンジョン監督の『ビーイング・ノーマル』(2002、イメージフォーラムフェスティバルで上映)は、男性器と女性器の両方を持って生まれてきた「J」と監督とが学生時代にルームメイトとなったことから始まります。3年間にわたる2人の対話は人間関係や性自認をめぐる議論へと発展していきます。

 キム・イルラン監督の『3xFTM』(2008、関西クィア映画祭で上映)に登場する3人のトランスジェンダー男性は、男性であることの意味についてそれぞれに異なった意見を持っていますが、彼らが目指す自己実現の道は彼らを女性として扱おうとする社会構造によって阻止されています(登場人物の一人は履歴書の "女子中学"から "女子"を省いたことで訴えられています)。

  ピョン・ギュリ監督の『Coming to You』(2021)はゲイの男性とトランスジェンダーの男性がそれぞれの高齢の母親にカミングアウトするドキュメンタリーです。母親たちがLGBTQ+のデモに参加するようになるなど、少しずつ変化していく様子が描かれます。

 フェミニストの映画制作グループ「WOM DOCS」が制作したイ・ヨン監督の『不穏なあなた』(2015、自主上映会で上映)は4人の人生をつなぐ作品です。レズビアンのドキュメンタリー監督イ・ヨン、東日本大震災後に同性婚した日本人レズビアンカップルのテンとノン、70歳の「バジッシ(바지씨)」であるイ・ムクの4人が描かれます。

 「バジッシ」とは「レズビアン」や「トランスジェンダー」という単語が輸入される前の70~80年代に使われていた言葉で、ブッチ・レズビアン、トランスジェンダー男性、ジェンダークィアのいずれにも翻訳可能な多義的な言葉であり、イ・ムクの性自認もどれか一つの単語に集約されるわけではありません。劇中ではかつて愛した女性が別の男性と子供をもうけたことを振り返るイ・ムクの姿があります。自身のアイデンティティを放棄することなく何十年も不安定な状態で生きてきた彼女のような高齢のクィアの足跡を、他の3人の若者たちがたどっていきます。

韓国文化とクィア

 韓国のLGBTQ+の人たちは依然として苦しい状況にあります。同性愛自体は違法ではありませんが、差別禁止法の対象に性的マイノリティは含まれていません。同性婚(または同性カップル間の法的権利)は認められておらず、同性カップルによる養子縁組も認められていません。同性愛者の兵士どうしの合意の上での性行為も禁止されています。

 2021年3月には、トランスジェンダー兵士であるピョン・ヒスさんが性別適合手術を受けたことを理由に除隊させられた後自殺したという痛ましいニュースもありました。イ・ビョンホン主演の『バンジージャンプする』(キム・デスン監督、2001)ではいじめられたゲイのカップルが異性愛者のカップルに生まれ変わることを願って自殺を試みます。社会による拒絶という暴力は同化という破滅的な選択を強いるものです。

 キリスト教や儒教の伝統的な価値観に基づく韓国の保守派は、LGBTQ+の人たちが病気や共産主義を広めていると非難しています。北朝鮮では同性愛は南側で流行している西洋の快楽主義の象徴であり、「健全な精神と善良な道徳」への攻撃であると考えられています。北朝鮮からの難民であり韓国でゲイであることを公表して暮らしているチャン・ヨンジン氏の言葉を借りれば、国境の両側のホモフォビアが彼らを「二重の異端者」の地位に追いやっているのです。

 保守的な韓国文化において、韓国クィア映画は主流から排除されながらも常に影響を与え続けるアウトサイダーとしての位置を占めています。社会からの抑圧によって韓国クィア映画は高い芸術性と大胆な政治性を獲得しましたが、それは依然として抑圧が存在することの証でしかありません。韓国人作家のLouderaloudはこう述べています。「『韓国クィア映画』は必要に迫られてそのように呼ばれているものであり、ジャンルではなく単なる修飾語にすぎず、いずれはなくなることを願っています」と。

©Kelley Dong, MUBI/Notebook


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