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【林業の話をしよう】私の仕事は

林業の現場作業員である。
山に行って働き、そして休日はプライベートで山に登る。

「いやどんだけ山好きやねん」とよく言われるが、
私は周りの人が思っているほど自分のことを山狂いだとは思わない。

私にとっては山は「好き」の一言で片付けられる存在ではない。


今回は、
山から一体何を教わったのか、私の話にお付き合いいただこう。



新卒でこの仕事を選んだのはサラリーマンしたくなかったからであって山が好きなわけじゃないのに、、、
と、23歳の私は初めて現場を目撃したその日に思った。

知り合いのツテで縁もゆかりもない和歌山県の田辺市まで辿り着いてしまっただけなので、
和歌山の山は他の都道府県に比べて斜面が急だなんてもちろん知らなかった。
初めて見た現場は斜面というより「壁」としか思えない角度だった。

山に登っている最中、私は「しんどいので一旦休みたい」と勇気がでなくて言えなかった。
そのままなんだかんだと仕事を続けて2年半の月日が流れた。



班長に初めて会った時は、目の色素だけがやけに薄い人だなと思った。
太陽の光に透かされて、瞳孔から伸びた放射状の線まではっきり見えた。
半透明の茶色い目を見ながら、自分の目はなぜこんなどす黒くなってしまったのかを思った。


山で働くのはとても難しいことだった。ド素人である私は下調べが甘すぎた。つまりナメていた。
怖い思いを何度もし、山に入ると自分と死の距離がそう遠くはないことを痛感せざるを得なかった。

足を滑らせ、咄嗟に近くの木の根を掴み、その根は中が腐っていて、根っこを手に掴んだまま真下に落ちた時。
枝が重なっていて足場が見えない中適当に一歩踏み出し、枝の隙間に片脚まるごと股間まで下にハマり脚が抜けなくなった時。
自分の倒した木の地響きで足が痺れた時。
明日死んでも今日死んでも今死んでも、ふしぎはない場所に私はいるんだと直感的に悟った。

ハッとする、ドキドキする、自分の生をまざまざと感じる、これをスリリングなアクティビティとして楽しむことも可能だとは思う。
しかし、私は死にかけることに楽しさを見出せなかった。
そして班長はそんな私に、山での歩き方と、身体の動かし方、バランスの取り方を教えた。

林業作業員をしているというと、
植物や生物学的な話、山での生態系や、地球規模での環境問題の話を平気で振ってくる人が数多く存在しているのだが、
私たちの仕事は「山の専門家」などではなく「山を効率よく作るための作業を進めるプロ」であるのだ。
植えたスギやヒノキは私たちに己についてを語りかけて来ないが、私が動かす一挙手一投足については自分が一番詳しくなる。
つまり私たちは「山でいかに身体を使いこなし作業できるか」が専門分野なのである。


班長から何かを教えてもらっても大抵はわかった気にすらなれなかった。
こちらから質問しておいて「いやぁ……ちょっとあんまりわかんなかったです」と曖昧に言い続け、
あぁわかった! と思った次の日はやっぱりあの時わかってなかったと思い直した。
日進月歩どころか、一歩進んでは一歩ずつ後退しているかのような毎日だった。
うちの会社の稼ぎ頭でもある班長はいろいろ言葉で説明してくれたが、
「これが合ってるかは今でもようわからん。最終自分でベストを見つけるしかない」とよくいった。
「もっといいやり方見つけたら、教えて」ともいった。

職人たちは自分が一歩進めば、その分だけ疑問が見え、自分の未熟さがわかるといいます。

「木の教え」、塩野米松、筑摩書房、2010

班長は忍者のように山を駆け巡り、魔法使いのようにいつの間にかどんどん仕事を終わらせていく。

私が道に迷って遅刻しても(n回ある)、忘れ物しても(n回ある)、ミスっても、教わったことを忘れて同じことを無限に聞いても、たったの一回も怒ったことがない。私にイラついてる姿すら見たことがなかった。

私は班長がこの仕事以外のことをしていたら、今と少し人格は違っていたんではないかと仮説を立てている。

山は、自然は、思ってもみないことが起こるのが当然の場所だ。人間がいくら腹を立てたって抗えない。
だって人はちっぼけだから。スケールが違うから。
山にいるとそういうことがよくわかる。天気だってもちろん操れない。合わすのはいつでもこちらだ。おじゃましている分際なのだから。
この仕事をずっと続けていると、観察するのが、つまり見て、対応する、というのがうまくなるのではないかと私は踏んでいる。

自然:人間の応用で、人間:人間になっても同じ話で、人間関係でも思ってもみないことが起こるのはふつうだ(みんながその共通認識を持っているとは思えないが)
私の目の前のその人は、私が認知できる範囲のその人だけでは構成されていない。もっと私が知り得ない奥行きがある。だから何を言い出しても許されるし、自由だ。自分の認識できるキャパのその人を「その人」と思うのはまちがっている。

班長は私が「唯、女王さまする」と言っても全くうろたえなかった。「誰が何をしたくても、しても、自由や。いろんな人がいるのが、ふつうや」といった。あまりにうろたえなすぎて私がうろたえた。


班長から身体の動かし方に対する知識が与えられて、わからないなりに考えるようになった。
自分で勝手にいろいろ考えては試し、聞いて失敗しては学び、学んだつもりになってはまた失敗し、結果己のヘボさを一番学びジタバタする、そういうのが楽しかった。

班長は言葉や動きからいろんなことを教えてくれた人だ。
そして、
自然のことはおろか、自分の身体すら上手に動かせない存在である自分
ということを私は山から教わった。

だいたい「何時間でここまで作業が進むな」という目論見は外れる。
そこで目に映った景色をいかに認識できてないのか、どこまで見れていてどこは見れてなかったのか考える。認識の甘さを知る。

等高線に合わせて横に作業を進めていても、振り返るとガタガタになっていて、集中力も注意力も散漫になっている自分を知る。山の斜面一定ではなく、シワがあり、よく見て判断する必要があることを知る。


思い通りにいかないことをイラついて解消するのではなく、一つ一つ知って、果てしない時間をかけてわずかに微かに潰していく、
あぁ私の仕事はこれなのだな、と思った時、すごく晴れやかな気持ちになれた。


以前ネット上で、
登山している人のことを「家で食べられるものをわざわざ山に運んで食べるののなにが楽しいのか」
と書いている人を見かけて、おもしろくて笑った。
私からしたらどうせ死ぬのになんで生きてんの? といっているように聞こえる。
意味なんてない。だから楽しめるの。
自分なりに意味を見出すから、勝手に解釈するから、この世は創造できる余地と自由があるから、楽しいんじゃん。
山じゃなくたって仕事だって人生だってなんだってそうでしょう。

vs自然で仕事を進めるのではなくて、
自然を舞台にどこまで自分の認識や知覚できる範囲を意識で開拓していくのか、
それが林業の面白さだ。

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