皮膚
最初は本当に痒かった、はずだ。
虫刺されか何かだったと思う。
刺された場所も、腫れ方も見えなかった。
自分の首は絶対に目に映らないという当たり前のことに私は初めて気付いた。
だからそれが本当に虫刺されだったのかどうか、ついぞ私にはわからないままだった。
こんなに首を意識したことがなかった。
首がこんなに触ってて魅力的な、夢中になれるものだと思ったことがなかった。
灯台下暗しとは私と私の首との出会いのために作られた言葉なんじゃなかろうか。
首って専門的な知識がなくても明らかに太い血管が通ってて、なんか非常にヤバそうなでかい筋もある。
脈打ってて、ずっと息をしてる。
そんな大事な場所なのに、こんなに触りやすい場所にあって、大丈夫なのだろうか。
露出しすぎではなかろうか、もう少し、奥まったところに隠れてなくていいのだろうか。
指で力を入れるたびに薄い皮膚が簡単に動き、自分の命まで爪をたてられる気がした。
痒いとは思っていたはずだが、掻いても掻いても痒い場所がわからなかった。
私は手が暇になるたび首を掻いたが、首を「見る」ことはなかった。
見えないからこそ過剰にそそられ、触っても触っても手が届いてないようにすら感じた。
仕事では首が詰まった作業着を着ているため、鏡に映る自分を見ても顔以外に全く目がいかなかった。
しかし、だ。
お出かけしようと思ったある日、
首元が開いたリブニットワンピースを着た自分の姿を目にした時、やっと首の有り様に気がついた。
首に残っているのは小さな虫刺されの跡がふたつと、全く見当違いの場所を雑に掻きむしりまくった跡だった。
無数にある細いキズには血が滲み、かさぶたができて、ところどころ黒ずんでいる。
客観的なヴィジュアルは完全にあかん部類だった。私を見て話をしようもんなら、どう考えても気が散るルックス。
私的にはこれぞザ・命やなと思った。美しくすらあった。
えぐれた部分はギョッとするほど生々しく、触った分だけちゃんとそこにあった。
そしてそれが目にうつった時、ふしぎなことにそれは自傷と呼ぶのがしっくりくるのだった。
中学生の時、手首を切った。
ピアノの先生に腕を掴まれて「なんなん。これ」と言われた。
は? 見てわからんか? リストカットやけど?
と思った。口に出す度胸はなかったが。
本当に死にたかったら、ピョンする、あるいは思っっっくそ切るという選択肢があることをその時から知っていた。頭良かったからね。
でも私は手首の表面をズタズタにすることしかしなかった。
今はどうか。
死にたくなどない。手首も切らない。
だけど、どうしても命を触ってみたくなったのだ。
撫でれたらよかったのに、そんな生ぬるい手段では見付けられなかっただろう。
私は恐怖と痛みという方法でしか命へのアクセス方法を知らないのだ。本当はばかなのかもしれない。
結局コンシーラーとファンデーションを塗りたくって外に出た。
お店のトイレにある鏡で首を見ると、若干不自然ではあるが、普通の首だった。
命を隠した非常につまらない首だった。
安心した。
もう首を掻くのはやめた。
命が皮膚に移って満足できた。
自傷はうっすら死にたい人がする痛々しい厨二病の子たちのものだと思っていた。
理由を辿るとそりゃ山のように思い当たるが本当は全部違う。
私は自分の命が見てみたかったのだ。
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