日中戦争の起点「対華二十一カ条要求」

106年前の今日(1915年1月18日)は、大日本帝国(大隈重信内閣)が中華民国(袁世凱大総統)に対して、日本の中国における権益拡大や、中国政府の政府・財政・軍事顧問への日本人の採用などを要求した「対華21カ条要求」を突きつけた日である。『日中戦争全史』の著者・笠原十九司氏は、中国への侵略戦争の起点を「対華21カ条要求」としている。
以下、同書から一部を抜粋する。

日独青島戦争と二十一カ条要求の強制

 第一次世界大戦直前のヨーロッパは、ドイツ・オーストリア・イタリアが三国同盟、イギリス・フランス・ロシアが三国協商と、それぞれ軍事同盟をむすんで対立していた。一九一四年六月二八日、オーストリアの皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺されたサラエボ事件をきっかけに翌月二八日にオーストリアがセルビアに宣戦布告をすると、ドイツ・ロシア・フランス・イギリスなどが相次いで参戦し、第一次世界大戦が開始された。
 八月四日にドイツと戦争状態にはいったイギリスは、八月七日、日英同盟を結んでいた日本政府に、極東におけるドイツ軍艦と武装商船(商船に仮装した巡洋艦)を捜索して撃沈してほしいと依頼してきた。当時ドイツは、一八九八年に中国から租借した山東半島の膠州湾の青島に近代的な港湾施設をととのえて、ヨーロッパ風の大都市を建設していた。また、膠済鉄道(山東省の省都済南から青島まで)を敷き、山東省内の鉱山の利権も獲得して、開発をおこなっていた。青島はドイツ東洋艦隊の根拠地であり、多数の砲台と保塁を周囲に配置した要塞都市でもあった。
 ドイツは一九世紀末いらい、日本が独領南洋諸島と呼んだマリアナ・カロリン・マーシャル諸島を植民地として支配、ドイツ東洋艦隊が寄港していた。イギリスは、ドイツ東洋艦隊の艦船が、シンガポール、香港に軍港をおく、イギリス東洋艦隊の艦船やイギリス商船を背後から攻撃することを恐れたのである。
 イギリスの依頼をうけた日本政府(大隈重信内閣)の加藤高明外相は、第一次世界大戦に参戦することによって「日支懸案の解決」(六四頁参照)をはかる絶好の機会ととらえ、八月一五日にドイツに最後通牒をつきつけ、一週間後に宣戦布告をおこなった。日独青島戦争である。
 日本軍の総兵力約五万人、対する青島要塞のドイツ軍守備兵は、四九二〇人だけであった。日本軍は一一月七日には青島を占領して日独青島戦争に勝利した。膠州湾租借地をドイツから接収した加藤外相は、「日支懸案解決」の時期が到来したと考え、軍部、財界の要求をいれて原案を作成したうえで、一九一五年一月一八日、二十一カ条要求を日置益駐華公使から袁世凱大総統に直接手交させた。公使からは外交総長(外務大臣にあたる)をつうじて外交交渉をおこなう通例であったので、異例なやりかたといえた。要求は第一号から第五号まであり、合わせると二十一カ条になった。

日中戦争「前史」としての二十一カ条要求

 二十一カ条要求の内容で大きなものは、三つあった。
 一つは「第一号山東省に関する件」の四カ条で、ドイツが山東省にもっていた一切の権益(権利と利益)を日本に譲渡すること、さらに山東半島北岸の芝罘(現在の煙台)または龍口から膠済鉄道につながる鉄道の敷設権を日本に与えること、という要求であった。これは日独青島戦争の勝利の戦果の要求であった。加藤外相はこれを「三国干渉への報復」といった。それは、日清戦争直後の三国干渉にドイツが参加し、日本が下関条約で獲得しようとした遼東半島を清国に返還させておきながら、一八九八年に山東省でドイツ人宣教師が殺害されたのを口実に出兵し、膠州湾をドイツの租借地としたことへの「報復」という意味で、日本の朝野の声でもあった。
 袁世凱は二十一カ条要求を「亡国の要求」、すなわち、これを受諾すれば、五年前の一九一〇年に日本が韓国に強要した「韓国併合条約」と同様に中国が亡びることになると驚き、交渉を長引かせて抵抗するいっぽうで、イギリスやアメリカに秘密交渉の内容を洩らし、両国政府からの干渉を引き起こして阻止しようとした。袁世凱政府の抵抗に業を煮やした日本は、青島・済南・天津・南満州へ戦時編成の日本軍を増派し、一九一五年五月七日、袁世凱政府に要求受諾を迫る最後通牒をつきつけた。日本軍は南満州に戒厳令をしいて南満州駐屯軍に総動員令を発動、済南の日本軍守備隊に臨戦態勢をとらせた。さらに海軍の軍艦を中国沿岸に配置させ、北京公使館および各地の領事館員ならびに日本人居留民に引き揚げ準備に入らせた。
 南満州とは、日本が日露戦争の結果、ポーツマス条約によってロシアから獲得した長春以南の南満州鉄道と大連・旅順を中心とする遼東半島租借地を総称していう。当時、中国では遼東半島は「関東州」と呼ばれていた。関東州や南満州の日本の権益を守るために駐屯した陸軍守備隊が後に関東軍となり、さらに満州事変以後、満州(中国東北部)全体を武力支配した日本陸軍を関東軍と呼ぶようになる。関東軍は終始一貫してロシアそしてソ連を仮想敵として、日本の北進政策を推進するための「北向きの軍隊」であった。
 話を二十一カ条問題にもどして、日本の陸軍と海軍の軍事威圧に直面した袁世凱政府は、日本政府がイギリスとアメリカの圧力で第五号要求(六五頁参照)を撤回したこともあって、五月九日に二十一カ条要求を受諾した。中国の国民は、日本が最後通牒を突きつけた「五月七日」と袁世凱政府が受諾した「五月九日」を屈辱の日として永久に忘れず、日本への恥辱を雪ぐ覚悟を新たにする日として、「国恥記念日」と定めた。以後毎年この両日は、日本の中国侵略に対する愛国・救国運動を鼓舞する行事がおこなわれる記念日となり、長くつづくことになる反日民族運動史、抗日運動史の出発点となった。中国にとっての抗日戦争の「前史」の始まりといえる。
 日独青島戦争により、日本は済南・青島・膠済鉄道(山東鉄道)沿線を軍事占領して、ドイツの山東権益を接収、青島守備軍による軍政をおこなった。日本軍占領下に、旅館業・料理屋・飲食店・露店・薬屋など商売営業をする日本人が、青島や済南など山東半島の都市や山東鉄道の沿線へ移住していった。青島では、日本領事館記録によれば、日独青島戦争の前の一九〇六年には一八九人であった日本人が、一九二二年には二万四一一二人に膨れ上がった。済南では一九一四年に一五四人であった日本人が、一九二二年には五六〇六人に増大した。これらの日本人は居留民といわれたが、次節で述べる日本軍の山東出兵は、済南における日本人居留民保護を理由におこなわれたものである。山東出兵は日本が満州事変への道を歩み出す「歴史の転換点」になる(八九頁参照)ことを考えると、二十一カ条の「第一号」を既成事実化するために多くの日本人が進出していったことも「前史」を形成した重要な要因となった。

 もう一つは、「第二号南満州鉄道および東部内蒙古に関する件」の七カ条で、加藤外相が第一次世界大戦に参戦して「日支懸案の解決」をはかろうとした外交課題の中心で、当時「満蒙問題」といわれた。要求の内容は、旅順大連租借地期限ならびに南満州鉄道および安奉鉄道(安東─奉天)および吉長鉄道(吉林─長春)の管理経営の各期限をさらに九九年延長すること、南満州と東部内蒙古における日本人の居住、営業の自由を付与すること、日本に鉱山採掘権を許与し、独占的に鉄道敷設権を与えること、さらに日本人の政治・財政・軍事顧問教官を招聘すること、などであった。
 この「満蒙問題」、すなわち南満州からさらに、ロシア革命によって帝政ロシアが崩壊したあとの北満州もふくめて、満州全域と内モンゴルへの日本の進出は、日清・日露戦争後の日本の中国大陸進出政策の根幹となるものである。一九三〇年代に入ると「満蒙は日本の生命線」というスローガンが日本の朝野で叫ばれ、満州事変を経て「満州国」が建国されることになる歴史を想起すれば、二十一カ条要求が「満州事変への道」の「前史」の画期となったことが理解されよう。
 後述するように張作霖爆殺事件で父を殺害された張学良のもとに、東北政権の建設が進み、二十一カ条を契機にして拡大された日本の進出に対抗し、日本に奪われた権益を回収しようとした民族運動が強まっていた。こうした「排日運動の激化」にたいして関東軍は、「日本人居留民保護」をし、「日本の生命線である満蒙」を死守すると称して満州事変を発動したのである。
 満州居住の日本人は、たとえば、日本領事館の記録によれば、奉天(現瀋陽市)では、一九〇六年に二二五〇人、一九一四年には一万六五五八人であった日本人が、一九二二年には三万九一一人と激増、満州事変の発生した一九三一年には四万七三一八人になっていることから、二十一カ条要求が、日本人の満州進出を促進するきっかけをつくったことが理解されよう。
 すでに述べたように、日本が日露戦争で獲得した南満州鉄道と遼東半島租借地の守備隊を前身として一九一九年に関東軍が組織され、その関東軍が謀略による柳条湖事件を引き起こし(満州事変)、軍事行動を開始したのを、多くの日本人が熱狂して支持したのは、日本人居留民が暴動的な「排日」により、生命財産が危険にさらされているのを救出するためと信じたからである。

 さらに一つが「第五号懸案解決その他に関する件」の七カ条である。さまざまな要求からなり、一見寄せ集めに見えるが、わずか五年前の韓国保護国化から「併合」(一九一〇年)へのプロセスを念頭において見ると、日本の政府・軍部がつぎは中華民国の保護国化、植民地化をねらって作成した青写真と見ることができる。
 日本は日露戦争中に第一次日韓協約(一九〇四年)を強制して、日本人の財政顧問と、軍事顧問、警務顧問や日本が推薦する外交顧問を置かせ、顧問政治をおこなわせた。第二次日韓協約(一九〇五年)では統監府を設置して外交権を奪った。そして第三次日韓協約(一九〇七年)では、韓国軍を解散させ、司法権・警察権を奪い、韓国併合条約(一九一〇年)で韓国植民地化を強制したのである。
 第五号からは、中華民国中央政府に「有力なる日本人顧問」を採用させて、政治・財政・軍事の枢要を掌握し(第一条)、台湾の植民地化、朝鮮の植民地化において民族抵抗を弾圧・鎮圧、統治を維持するために絶対的な役割を果たした警察官と警察制度を導入させ(第三条)、さらに日本からの兵器供給ならびに日中合弁の兵器工場生産の日本式兵器によって中国軍の装備を日本式にする(第四条)、また、布教権の自由を認めさせて中国各地に神社を建立させ、天皇制国家神道を流布、宣伝し(第七条)、日本人を大陸に送りこむために日本の学校や病院、寺院(神社)を各地に設立して日本人居留民社会を拡大させる(第二条)など、中華民国の保護国化、植民地化への青写真となっていることが読みとれる。
 第五号要求は、将来の中国の保護国化、植民地化を推進するための長期戦略構想とし、受諾させた後に徐々に可能な要求から実現していくことを狙ったものといえる。
 実際には、日本政府は、アメリカやイギリスの反対と袁世凱政府の執拗な抵抗に焦慮し、最後には第五号要求を撤回したうえで、袁世凱政府へ最後通牒をつきつけて受諾させた。このとき撤回したとはいえ、第五号は、日本政府が満州事変・日中戦争の大きな戦略構想となる、中国の保護国化、傀儡国家化の要求を一度、中国につきつけたことの意味は重要である。後の歴史が明らかにするように、第五号の構想は、「満州国」建国や日中戦争時の汪精衛の「中華民国国民政府(南京政府)」の樹立へとつながっていく。二十一カ条要求が満州事変・日中戦争の「前史」に位置づけられる所以である。

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