「支那」の呼称に固執した大日本帝国

106年前の今日(1915年1月18日)は、大日本帝国が中華民国に対して、日本の中国における権益を要求した「対華21カ条要求」を突きつけた日である。
この外交文書には「中華民国」ではなく、一貫して「支那」の呼称が用いられている。
なぜ、日本政府は「支那」の呼称に固執したのか?
以下、笠原十九司著『日中戦争全史』上巻から一部を抜粋する。

大日本帝国の「臣民」と中華民国の「国民」

 二十一カ条要求の外交文書は当時の中国の正式名称であった「中華民国」および略称としての「中国」を意図的に使用せず、「支那」という用語を使用している。加藤外相が二十一カ条要求の狙いを「日支懸案の解決」と言っていたことは前述した。日本政府が「中華民国」「中国」の名称を用いず、それまでの「清国」に代わり、「支那」と呼称するように政府に進言したのは、辛亥革命によって中華民国が建国されたときに駐華公使であった伊集院彦吉であった。これを受けて、一九一三年六月、内閣の閣議決定で中華民国を「支那」と呼称することに決定した。欧米では中国の各王朝の国号いかんによらず、地理的名称の China を使用しているというのがその理由のひとつであった。中国政府はこれにたいし、中華民国の呼称を使用するよう求めたが、日本政府は応じなかった。
 天皇制国家の指導者たちは、「臣民」が国民主権意識に目覚めて「国体」=「天皇制」を変革しようとする動きを極度に恐れ、事前に取締り、厳しく弾圧した。一九一〇年には、皇室にたいする危害を「大逆罪」とした大日本国憲法下の刑法を利用して、天皇暗殺を企てたとする大逆事件が捏造され、社会主義者の幸徳秋水ら一二人が一九一一年一月に処刑された。これを契機に同年警視庁に特別高等警察(特高)が設置され、国体変革をめざす思想、言論・社会活動を取締り、弾圧するようになった。大逆事件は、国民にたいして天皇制を批判し、反対することへの脅しとしての効果を発揮し、天皇制批判を恐れ、タブー視する国民意識が時代とともに浸透し、定着するようになった。
 日本政府が中華民国という正式な国号を意図的に使用しないようにしたのは、中国民衆が二〇〇〇年以上つづいた専制王朝国家に終止符を打ち、共和制国家を樹立したことの意味を日本人に認識させまいとした政治的配慮があったからである。「民国」といえば、「民の国」すなわち「国民主権の共和制国家」がイメージできる。中国では中華民国の主権者は「国民」であるのにたいして、日本では天皇制大日本帝国の「臣民」(天皇の統治に仕え、支配される民)であった。
 中華民国建国の憲法にあたる「中華民国臨時約法」(一九一二年三月一一日公布)は、第一条「中華民国は中華人民によって組織される」、「中華民国の主権は国民全体に属す」と主権在民を明確に規定した。これにたいし、日本がポツダム宣言を受諾して正式に連合国に降伏した一九四五年九月まで有効であった大日本帝国憲法は、第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」、第四条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、此の憲法の条規に依り之を行う」と定めていた。第二章「臣民権利義務」では、日本国民としてではなく「日本臣民」として、権利よりも先に、兵役の義務(第二〇条)、納税の義務(第二一条)が定められた。第一一条「天皇は陸海軍を統帥す」は、本書で後述するように、満州事変・日中戦争を遂行した軍部が「天皇統帥権」として最大限利用した。
 日本政府が「支那」「シナ」という蔑称をこめた呼称を公式文書でつかい、学校教育やメディアでも流布させた結果、時代とともに、差別意識、蔑視意識さらに侮蔑意識が増殖され、日中戦争の戦場において日本兵たちが「チャンコロ一人殺すのは屁でもない」などと言い合うまでになったのである。朝鮮人を「鮮人」「チョン」、中国人を「シナ人」「チャン」などと蔑称して見下す差別・蔑視意識が、日本の朝鮮植民地支配と中国侵略戦争に加担していく日本人の国民意識を助長していたことを考えると、この時の政府の呼称決定は、国民意識形成史からみた日中戦争の「前史」とみることができる。
 二十一カ条要求は、辛亥革命によって中国の主権者となった国民に、救国意識と愛国意識に目覚めさせ、政府と国民の官民一体的な民族運動を展開させた歴史上最初の事件となった。わずか数年前に日本が強行した韓国「併合」とその前提となった三次におよんだ日韓協約と二十一カ条要求(特に第五号)との類似性が強調され、「朝鮮亡国」の歴史や惨状が新聞に報道され、ビラやパンフレットや書物などで広く宣伝、紹介された。
 中華民国が日本によって朝鮮と同じように亡ぼされた場合、その責任は主権者である国民にあるという危機意識が高まり、日貨ボイコット(日本商品の不買・排斥)・国貨提唱(国産品の生産と愛用)運動が全国に拡大した。この二つの運動は、全国民が一致して日本商品を買わず、国産品を購入することを守ることによってはじめて効果を発揮するものであった。二十一カ条要求に抗議した日貨ボイコット・国貨提唱運動の結果、日本の経済進出は大きな打撃をうけた。
 この運動が愛国・救国啓蒙運動として全国に拡大、普及するなかで、中華民国の国民であるという意識が民衆に浸透していったことも重要である。
 二十一カ条要求反対運動以後、日本の中国侵略強化にともなう事件が発生したり、ぎゃくに日本に奪われた利権を取り戻すために中国主権回収熱が高まるなかで、日貨ボイコット・国貨提唱運動が反日民族運動、抗日民族運動の車の両輪のようになって、継続的に展開されることになる。
 これにたいして、日清戦争後の下関条約によって、帝国主義列強の仲間入りをして不平等条約体制を中国に押し付ける側に立った日本人は、前述した青島・済南・奉天へ移住、増大していった日本人居留民のように、日本の租界・租借地さらには日本軍占領地に続々と進出して行き、帝国主義国の特権を利用して、一旗揚げようとばかりに経済的利益をはかり、いっぽうで大日本帝国の権威を振りかざして、現地の中国人を差別・蔑視して横柄・傲慢にふるまったりした。第一次世界大戦期に急激に増大した日本人居留民は、現地中国人の日貨ボイコット運動あるいは排日運動が発生すると現地の日本外交当局へ取締りを求め、さらに運動が激化すると、日本政府・軍部に保護を求めて派兵による武力鎮圧を要請するまでになった。
 日本政府・軍部が「排日運動の激化により危険にさらされた日本人居留民の保護」というのを口実に、中国へ大規模な軍隊を派兵、そして戦争になるパターンは、本書で詳しく述べるとおりである。

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