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カワズ兄弟

スイミングスクールに行く日はいつも気分が重く、学校からわざとゆっくり歩いて帰り、「今日は遅くなっちゃったから行かなくていいよ」と、母が言ってくれるのを期待したりした。でもそんなことは一度もなく、母は、いつも社宅の前で待っていて、ランドセルと引き換えにスイミングバッグを渡し、まだ間に合うから行っておいで!と言うのだった。学年が進むと、センイチくんはスイミングスクールに通うのをやめてしまったので、ぼくはひとりで通うようになっていた。
スイミングスクールには、他の学校の子どもたちも沢山いて、レベルによって6クラスくらいに分かれていたので、様々な学年の子どもたちがいた。みんないつも元気だったが、その中でも「カワズ兄弟」は飛び抜けて楽しそうだった。兄の方の水泳帽にはカワズ(兄)、弟の方の水泳帽にはカワズ(弟)とマジックで書いてあったので、誰でもすぐに2人が兄弟であることが分かった。カエルのことをカワズと言ったりもするが、2人は確かにカエルのような顔をしていた。カワズ(兄)はぼくよりひとつした、カワズ(弟)はぼくのふたつ下の学年で、スイミングのクラスは、カワズ(兄)はぼくと同じクラスだった。カワズ(兄)は口調がどこか江戸っ子のようで、ぼくが風邪で見学をした時に、わざわざプールサイドまでやってきて、「今日は泳がないんですかい?」などと訊いてきたりした。

そして、いつからか、カワズ兄弟は更衣室で着替えながら、おかしな歌を歌うようになった。それは陽気なメロディで、こんな歌詞だった。「楽しい時には〜パンツを脱いで〜オマタを出して〜踊ろうよ〜 悲しい時にも〜パンツを脱いで〜オマタを出して〜歌おうよ〜♪」いつしか、彼らが歌い始めると他の子どもたちも一緒になって歌うようになっていった。ぼくにとってはとても苦痛なスイミングスクールなのに、なぜカワズ兄弟は、こんな馬鹿げた歌を歌えるほど楽しいのか、ぼくには理解できなかった。

水曜日と金曜日がスイミングスクールの日で、金曜日のスクールが終わると、とても安堵した気持ちになった。殆どの子どもたちは、迎えにきてくれた親の車に乗って帰っていく中、ぼくはひとりで歩いて帰るのが常だった。スイミングスクールが終わる時間は夕飯時で、冬などは、道から見える一家団欒の風景に羨ましさを感じたりしたこともあったが、金曜日の夜は、それでも寂しくはなかった。スイミングバッグの底に、母がいつも入れておいてくれるキャラメルを口に入れて、優しい甘さに幸せを感じながら、ぼくは頭の中で静かに「楽しい時には〜」と歌うのだった。

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