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フェミニズムの「ただしさ」を担保するもの

すでにこの記事で述べている通り、私は「フェミニズムは左翼的なポリコレリベラル(以降これを「政治的ただしさ」と呼称します)に立脚している」という言説を支持していません。

フェミニズムの「ただしさ」は、「政治的ただしさ」が担保しているのか?

社会学におけるマイノリティというのは、元々は黒人差別というアメリカの壮絶な因習を是正するために、発明された考え方である。
自身の傷つきを社会の問題とするマイクロアグレッションという考え方も、黒人差別の背景を考えれば必要だったのだろう。
そして時代を経て、数的優位であっても少数派を名乗れる便利な発明に乗っかる形で、社会の半数以上を占める女性を「社会的少数者」と定義し、公然と自らの傷つきを社会や他人が原因であると非難することが正当化されるようになったのが現代であり、権力勾配の名の下それを批判することも差別として糾弾できる「正義」としての立場に社会学が居座るようになった。

この記事によれば、現代の「左翼的なポリコレリベラル」もしくは「政治的ただしさ」はもともと黒人差別への反発から生まれたもので、女性運動もそれに乗っかるようになり、現代第4波フェミニズムの「被害者カルチャー」につながっていったことが示唆されています。

しかし、現代フェミニズムの前身である、ウーマンリブを支持していたのは黒人運動ではなく、むしろそれに反対する白人達であったことを知る人は、現在どれだけいるのでしょうか。

そしてこれは日本においても全く同じことが言えます。皆さんは、嫌韓ネトウヨ系のサイト・ブログ・掲示板において、「レイプは韓国の国技」という言説を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

この記事この記事でも言及していますが、「その共同体に属する女性」の安全に訴える手法は、ほぼあらゆる差別主義・排外主義の主張で用いられています。なぜでしょうか。その答えは、良くも悪くも、「女はその共同体の子産み要員であるから」です。

「不妊」という例外は別にしても、女には「次世代を産み育てる能力」が本質的に備わっており、それは現状でも社会的に代えがたい能力になっています。「代理母ビジネス」という策もありましたが、近年はフェミニストによる批判も強まっています。

ですから、フェミニズムの「ただしさ」は左翼的な「政治的ただしさ」ではなく、「共同体の子産み要員であること」そのものが担保していると私は考えます。その圧倒的な力には、「左翼」でさえ抗えないのです。

少子化が進んだのは、「フェミニズム」が浸透していないから

その上で、あえて私は、このように断言します。ただしここで言う「フェミニズム」とは、「女の地位向上・社会進出を進め、家父長制の伝統的家族観を解体させるべき」という思想のことを指しません。「男は女を立て、稼いだカネをすべて女に寄進し、女たちの問題を進んで解決していくべき」という思想のことを指します。

そもそも「女を尊敬し、その安全や自由を守ること」と「女の地位向上や自己決定権を制限すること」は矛盾しません。「慈悲的差別慈悲深いミソジニー」は両者の建前を併存させた結果発生したものですからね。

なぜボーヴォワールは『第二の性』を著し、女性の地位向上や社会進出を求めたのでしょうか。その答えは、大幅に簡略化すれば「夫の言いなりになりたくなかった」からでしょう。

逆に言えば夫たちが妻を言いなりにしようとせず、ただただ収入の運び人として妻に尽くしていれば「地位向上・社会進出」などしなくてよかった、ということになります。実際彼女もサルトルを夫としたわけです(これには「哲学・社会学の権威とくっつくことで自らの主張を通しやすくする」という狙いがあったとも言われます)。

私はこのような主張がいずれフェミニストや「お目覚め勢」から出てくることを確信しています。その言説が主流となった時が、フェミニズムが「地位向上・社会進出」を諦めた時と言えるでしょう。

“女の権利制限”は、フェミニズムの名の下に為されるだろう

ですから、私は「“女の権利制限”はアンチフェミによって為されるとは限らない」すなわち「フェミニズムの名の下に為される可能性も大いにある」と考えます。

小山晃弘氏はこのように述べましたが、この理屈に則るなら、今で言う「アンチフェミニズム」がその制限を主導する、という保証も全く無いわけです。

読者の皆さんが、AV新法に対してどのような意見を持っているかにしても、新法を巡るフェミニスト達のいざこざは、まさにそのことを学ぶいい機会だったと思います。

だからこそ、「それ以外の方向から批判できること」が重要だ

「反フェミニズム」と「伝統保守・復古主義」がイコールで結べることは、「フェミニズム側の論客」にとって非常に都合がいい状況です。最悪「なぜその“性役割”は女の都合のいいように運用されないのか」と論立てできますからね。すもも氏が彼ら彼女らから「女をあてがえ論者」と見做されていたのもこのためです。

まず、性的平等主義は達成し得ない。よく民俗学の研究者が未開の民族を調査して「男女平等でした」とドヤ顔で報告するが、そんなものは当たり前だ。分業がほとんどないからだ。
それならと差別を伴う家父長制を敷いても、弥縫策にしかならない。なぜなら、ほかならぬ男らしさが、最終的にはフェミニズムに屈服するからだ。

匿名用アカウント氏は「復古主義こそが最終的にはフェミニズムに屈服する」と述べましたが、まさに私も同感です。

これからの時代、「伝統保守・復古主義」以外の方向からフェミニズムを批判できることは、非常に重要です。今般の参院選では、「表現の自由」というイシューに偏ってはいますが、そのような方向から批判できる候補が、各政党から出てきていることは、いい流れだと思います。

我々アンチフェミニストは、ここから一歩たりとも「伝統保守・復古主義」の方向に進んではいけないと私は考えます。我々は若いアンチフェミニストをそのような理論に迎合させないようにして、時間を稼ぐ必要があるでしょう。人工卵子・人工子宮の技術が確立され、女の妊娠を介さずに子供が作れるようになり、フェミニズムの「ただしさ」の真の原因を根本から崩せるようになる、その日までは。