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日本のフェミニズムが「国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している」簡単な理由

ただ、その中で特徴的なのは、弱者男性はフェミニスト女性を「加害者」と見がちな傾向だ。
たとえば、最近多くの読者を集めた記事は、タイトルが「弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください」となっている。つまり、フェミニストがこの「男らしさ」を強いる加害者だと感じているわけだ。
これは、国際的なフェミニズムのトレンドと大きく乖離している。フェミニズムには1860年代ごろに生まれてから現代に至るまで、多数の潮流がある。しかし、今トレンドになっている主な流派は「99%の人が連帯できるフェミニズム」であり、男性を敵視しない。

なぜ日本のフェミニストは「男らしさ」を強いるのか。なぜ国際的なトレンドと乖離しているのか。それは日本における草の根女性の結婚観、いわゆる上昇婚志向の異常性に原因を見出せます。

日本人女性の上昇婚志向は「異常」である

ここで強調しておきたいのは、日本人女性に上昇婚志向があること自体は原因ではないということです。それが極端に上の男しか見ないことが原因なのです。詳しくは上の記事を参照してください。

日本人女性が考える「普通の男」は現実には中の上だったり上流階層だったりする、というのは各所でも散々語りつくされていますが、結局それが示しているわけですよ。それより下の階層の男性を日本人女性は男として、いやそもそも人間として見ることができないということを。弱者男性が被差別階級たる所以、そして「人間として認めてくれ」と(強者男性ではなく)女に求める所以はそこにあります。

そしてこれはまた、(私も全く支持できませんが)少子化の是正や皆婚社会の復活のために女性の教育制限や就労制限をやるというのさえ、小手先の対策にしかならないことを示しています。根本的にこういった「高所得者の男性」の割合を増やしていかないとダメなのです。戦後昭和期では年功序列の日本型正規雇用によってほとんどの男性は30~40代くらいになればなんとか女に認められていました。もちろん、その多くはATMとしてですが。

彼女らは管理職にも政治家にもなる気はない

日本はジェンダーギャップ指数が先進国の中でも最低クラスに留まり続け、その原因が女性管理職や女性政治家の少なさにあることは至る所で言及されており、その是正が必要であることも至る所で叫ばれています。

しかしこれも、草の根女性が考える日本社会の理想とは大きくかけ離れています。彼女らはそうした形での地位向上を望みません。彼女らがジェンダーギャップ指数を持ち出すのは、その夫となる男性たちに対して「お前らは支配階級だ」と認識させ、彼らにノブレスオブリージュを要求しているためです。その意味で言うと、ジェンダー平等を目指すエリートのフェミニストとは完全に異なる理屈で動いているわけです。

なぜそうなったのか、というのは我々にもわかりかねるところではありますが、一つ考えられるのは彼女らが「バブル時代の栄光」にすがっていることが挙げられます。当時婚姻適齢期だった女性は今では高齢者の域に達しつつありますが、その時代の話を鵜呑みにした下の世代が「あの時代よもう一度」と考えることは不思議ではないでしょう。上の記事で述べたとおり、当時は普通の女性の男性を見る目は肥えきっており、消費社会やメディアもそれをどんどん後押ししていました。「24時間戦えますか」、「5時から男」、「アッシー・メッシー・貢ぐ君」、「男の三高」などといった流行語には少なからずその影響があります。一方でそうした女の選別に応じない男性たちは「10万人の宮崎勤」だの「保毛尾田保毛男」だの呼ばれて、今以上の社会的排除を受けていたのです。そう、今以上のね。ですからもしこの時代にワレン・ファレルの『男性権力の神話』が日本に渡ってきていたら(一応アメリカでは1993年に出版されているのでバブル最末期であればその可能性がありました)男性学もミサンドリーフェミニズムに堕ちるなどということはなかったかもしれません。

そして2010年代、SNSによる草の根女性の発言力の高まりと、MeToo以降の彼女らへのエンパワメントによって、「フェミニズム」という潮流そのものに、エリート主導から草の根主導へのパワーシフトが発生したわけです。とりわけ日本と韓国ではミサンドリーに基づいた勢力が主導権を握るようになり、そんな中でバブル期的なミサンドリーも増長していったものと思われます。

「女性の意識改革」は可能か?

私見であるが、アンチフェミ・弱者男性論者は女性への期待値の多寡により大きく2つに別れている。すなわち「女性は真の男女平等ないしノブリスオブリージュを実現出来る」と考える者と、「いやそんなん無理やろ」と考える者だ。良い悪いは別にして両者は遠からず袂を分かつ。特に前者側に近い反表現規制界隈は、彼らのドグマの「表現の自由」自体がリベラルに乗っ取った志向であり、リベラル…個々の自由意思を尊重し、規制規範を排する…の論理においてはフェミニズムを認めざるを得ないので…今もそうなってる気がしないでもないが…やがてフェミニズムや「政治的に正しい表現の規定権」を巡る内紛に落ち着くだろう。後者も「相互理解や譲歩は無理であり闘争のフェーズに入ってる」と認識しつつも、現実的な適応を目指していくと思われる。恐らく今の言論空間で闘争が生じることはまずない。
ともあれ、マスキュリズム/弱者男性論の主張をまとめれば、「男性は女性に対して(部分的であれ総体的であれ)不遇な立場に立たされている」という前提がまずあり、その原因として「性役割」または「魅力格差」をあげていると概観できるだろう。
ちなみに男性差別の原因として「性役割」を挙げる一派は基本的にリベラルな価値観を肯定する。彼らの究極的な目的は男女双方の性役割を解体し、真の男女平等を目指すことだからだ。ここでは彼らをマスキュリスト左派と呼ぼう。
一方で「告発権力」を男性差別の原因と考える側は、男女平等は根本的に実現不可能であると考える傾向が強い。これは「かわいそう」という感情を起因させる力(英語圏では「sexual capital」などとも呼ばれる)に生来的な男女差があり、それゆえ性規範を解体しても性的魅力資本の格差は解体できないと考えるからだ。これを上と区別してここではマスキュリスト右派と呼ぶ。

さて、マスキュリズム及び(保守派でない)反フェミニズムはこうしたジェンダー解放に係る女性の意識改革が可能と信じているか不可能と信じているかで大きく分かれると言われています。そして「不可能と信じている」側は「下の男を人間として見れないのは女の本能である」と考えているわけです。保守派も少し前まではこの理屈を援用して反フェミニズムの男性たちを煽っていました。

しかし、少なくとも日本に当てはめれば、女性の上昇婚志向は本能と言うだけでは説明できないものです。これを理解している人たちは「理屈の上では可能と信じている」と思われます。

「ジェンダー解放に関して、女性の意識改革は可能か」という問いは、この前提の上に成り立つものです。実はまだまだ「本能では説明できない」という事実を知っている人は反フェミニズムの中では極めて少ないです。その上で私が懸念するのは、彼らが次の衆院選で、「保守派の政治家」を擁護する原動力になってしまうことです。

2016年アメリカ大統領選でのトランプの勝利は草の根保守派の声なき声によるもの、という言説は一時期反フェミニズム界隈でも話題になっていましたが、最近韓国でも、フェミニズム政策に反感を持つ若い男性たちの票が、政治を大きく変えるということがあったようです。

ソウルと釜山(プサン)の市長補欠選挙が4月7日に行われた。結果は、巨大与党である「共に民主党」の惨敗。この結果を巡り、韓国社会は大きく揺れ動いている。一つの事件とも言えるほど、社会に大きな波紋を投げかけたのだ。
今回の投票における特徴は、20代男性と20代女性の投票行動が対照的だった点が挙げられる。注目すべきは20代男性だ。前回の記事で書いたように、韓国にフェミニズム旋風が巻き起こってからの7年間、ジェンダーを巡る議論で守勢に回っていた20代男性が野党に票を投じることで、親フェミニズム政策を掲げてきた民主党に痛撃を与えた。

ここで注意しなければいけないのは、少なくとも日本の政治の世界では、ジェンダー保守主義以外の反フェミニズム政治家は皆無だということです。そして次の衆院選にも現れはしないでしょう。しかしその「反フェミニズム」政治家も、公約には一応「女性と子供のために云々」と掲げている人が多いです。もちろんこれは私の言う「慈悲深いミソジニー」によるものに過ぎません。ただ、ここまで述べてきたように、日本の草の根女性はほとんど管理職や政治家といった形での地位向上を望んでいないわけですから、この政治家の甘言に彼女らの多くはついて行ってしまうでしょう。そのような政治家を支持するべきなのかを、よく考えなくてはいけません。本当に「女」を憎んでいるのなら。