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プロパガンダの手法

私がnoteを始めた当初からお付き合いさせていただいている、菊地さんの記事より。

安倍元首相が銃弾に斃れたのは記憶に新しいところですが、その後の「国葬」を巡っては、色々と意見があるようです。

白虎隊が武士道の宣材として使われた証拠

私自身が「戊辰戦争」「西南戦争」と向き合っている最中に、安倍元首相の事件が起こって、改めて「事件をプロパガンダの一手法として利用」することの危うさを、菊地さんの記事から感じた次第です。
実は、このような手法は今に始まったことではありません。戦時中、白虎隊や二本松少年隊が「国難に殉じた若者」の宣伝材料として使われたというのは、ご子孫の方からも伺っていました。
その様子が、水野好之氏(戊辰戦争当時の名前は進)「二本松戊辰少年隊記」の緒言からも、伺えます。

緒言
 慶応四年戊辰の役、会津藩においては少年相集まりて白虎隊を組織し、君国のために壮烈なる戦死を遂げたり。
 後世これを薩摩琵琶に弾じ、浪花節に歌い、あるいは演劇に脚色して武士道鼓吹の資となせるを以て、人口に膾炙せざるなきに至れり。
 当時わが二本松藩においても二十有五人の少年、相団結して一隊をつくり、西南の鎖鑰たる大壇口に於いて奮戦激突、なかば戦死せるの自蹟は、これを知るもの稀なりとする。
 余幸いに同少年隊に加わるを得て、しかして余生を保ち、ここに大正六年七月二十九日戦死者の五十年の法会を営み、英霊を弔うに当り、胸中万感の往来、禁ずるあたわず。
 よって思いを当年の硝煙弾雨中に走らせ、少年隊の組織とその奮戦の有様とを眼底に映じ来るに任せ、書き下せては小冊子とはなりぬ。
 当時の戦友にしてなお矍鑠たる壮士、幸いに補正に吝ならざらんことを。
 いまこれを同好の士に頒つに当り、一言すること爾り。
 
 大正六年七月  水野好之

出典:二本松戊辰少年隊

 二本松少年隊の存在は、この水野氏が公にするまでほぼ歴史の闇の中に埋もれていたと言っても、過言ではありません。
(地元の人は、知っていたでしょうが)
彼が公にした心境は、今となっては推測に過ぎないのですけれど、やはり当時の「プロパガンダ的な手法」に、異議を唱えたかった思いもあるのだろうと、私は考えています。

葉隠が評価されるようになった時期

また、「武士道」の在り方としてしばしば引用される「葉隠」についても、注意が必要です。
葉隠が書かれたのは、1716年頃と言われています。ですが、評価されるようになったのは、1906年(明治39年)以降と、比較的近代の話なのです。
評価されるようになった時代のバックボーンとしては、日露戦争(1904-1905)の直後であり、やはり政治的意図も絡んでいたと考えざるを得ません。
もちろん、この頃は薩長の派閥が幅を利かせていた頃でした。
逆説的に考えれば、「人の死を美化する」手法というのは、明治以降に生まれた考え方とも言えます。

人の死をプロパガンダに利用しないでほしい

戊辰戦争や西南戦争を扱うにあたって、私が一番注意しているのが、この点です。人の死を悼む思いはあれど、政治的に利用されてはたまったものではありません。
そのような行為自体が、故人や遺族に対しても失礼ではないでしょうか。
明治時代ではないのですから、いい加減、そのような手法から脱却して頂きたいものです。


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