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昔の人のエンターテイメント

先日近くの果樹園まで桃畑の写真を撮影するために、足を運んできたのですが、もう一つ目的がありました。

それが、「奥の細道」の史跡を訪ねること。

松尾芭蕉が曽良と共に「鏡沼」を訪れたのは、旧暦4月22日(現在の6月9日)だったようですが、江戸時代には、ちょっとした逃げ水(蜃気楼)スポットとして有名だったようです。

とかくして越(こ)え行(ゆ)くままに、あぶくま川を渡(わた)る。
左に会津根(あいづね)高く、右に岩城(いわき)・相馬(そうま)・三春(みはる)の庄(しょう)、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の地をさかひて、山つらなる。
かげ沼といふ所(ところ)を行(ゆ)くに、今日は空(そら)曇(くもり)て物影(ものかげ)うつらず。
須賀川(すかがわ)の駅に等窮(とうきゅう)といふものを尋(たず)ねて、四、五日とどめらる。

(引用元:http://www.hirama.net/wiki/wiki.cgi/okuno?page=%A1%D6%A4%AA%A4%AF%A4%CE%A4%DB%A4%BD%C6%BB%A1%D7%C1%B4%CA%B8#p11)

ご覧のように、現在は小さな公園として整備されています。
もっとも、辺りに人家は少なく田んぼのど真ん中(しかも、国道から少し外れた所)にあるので、私もGoogle Mapsに頼って見つけましたが😅

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もう一つ。
鏡沼は時の権力者「北条時政」(北条政子のお父さんですね。鎌倉幕府初代執権)に逆らった和田平太郎胤長がこの地に流され、後に処刑されました。
その夫を追ってきた妻が、鏡を胸に抱いて(夫から贈られた宝物だったのでしょうか?)入水したという伝説があるようです。

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もっとも、この話が記録された天保時代は松尾芭蕉よりも後の時代なので、松尾芭蕉はどこで鏡沼の話を知ったのでしょうね。
どのような経緯でこの土地を知ったのか、興味深いところです。

なお、近くにはこんなスポットも。
奥の細道には登場しませんが、個人的には芭蕉と曽良も訪れていると思うんです。

※こちらの写真で雪があるのは、撮影したのが2月だったからです。
以前に太田屋菓子店さんを訪問した際に、「ついでだからいつかネタで使おう」と思い、撮影しておいたもの。

一見、「どこのお社なの?」という感じですが……。
中には石背国国造四世が祀られているのでしょう。
石背国国造は、文献で確認できる最古の岩瀬地方の支配者ですね。
(既に、管理人はいないはずです)

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土地の有力者が仁徳天皇に献上する酥(チーズ)を献上するために
→地元農民よりも先に牛を飼育し始めた
→その伝説にあやかって?お乳の出の悪いママさんたちの、「お乳が出るようになるご利益がある」パワースポットとして、地元では知られていたようです。

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もっとも、かなり足元が悪いので、個人的には余程の物好き?でなければお社まで登るのはおすすめしません。
ほぼ手入れがされていないので、足元が滑って危険です。

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今となっては確かめるすべもありませんが、何となく芭蕉&曽良なら、土地の人に聞いて、お参りしそうなイメージがあるんですよね(笑)。

一応、じゃらんのサイトにも載っていました。

なにせこの近さ。立ち寄っていたとしても、不思議ではない距離です。

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で、芭蕉と曽良はこの後須賀川の相楽等躬宅でしばらく滞在するのですが、その模様はまたいずれ改めて。

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それにしても、芭蕉と曽良はどんな気分でここを通ったのでしょうね。
昔の人の旅は、時には「今生の別れ」を意味するくらい大変なものだったのでしょうが、それでも何だかんだで地元の名士を訪ねたり、このような雛の里(今でも、結構田舎です😅)の情報を仕入れている段階では、それなりに楽しんでいたんでしょうね。

「ああ、せっかくあの蜃気楼が見れると思ったのに(´;ω;`)」と内心がっかりしつつも、

今日は空(そら)曇(くもり)て物影(ものかげ)うつらず。

一文に万感の想いを込めたのかと想像すると、現代の私達にも通じるものがあり、おかしくてたまりません(笑)。

これまで数々のサポートをいただきまして、誠にありがとうございます。 いただきましたサポートは、書籍購入及び地元での取材費に充てさせていただいております。 皆様のご厚情に感謝するとともに、さらに精進していく所存でございます。