比企能員の変と頼家追放
比企能員の変と頼家追放に関しては、大きく分けて二つの記録があります。
それは吾妻鏡と愚管抄です。
二つの記録は、同じことを書いているのに、多くの点で異なっています。
多くの人が知っている話は、吾妻鏡の方なのでしょう。
しかしながら、愚管抄の話を無視することはできません。
というわけで、二つの史料を比べてみようというのが、今回の主旨になります。
頼家の最後についても、吾妻鏡と愚管抄は対照的です。最後をきちんと表現する愚管抄と、最後の詳細を書かない吾妻鏡。
1300年付近の北条得宗家フィルターが入ると記録がどうなるのか、よくわかる良い例の一つです。吾妻鏡は危険ですね。
というわけで、史料を見ていきましょう。
愚管抄の比企能員の変
今回は愚管抄の記述から見ていきます。
後から吾妻鏡を読むと、違いが良くわかってとても面白いです。
スタンスの違いが、こうも物事の描き方に影響を与えるのだなと、わかっていただけるのではと思います。
『愚管抄』は九条兼実の弟でもある天台座主の慈円が書いたとされる書です。慈円のもつ仏教的な世界観をベースに、歴史に対する洞察が書かれていたりします。
日記のように毎日つけたものではなく、要約した記録になりますが、同時代史料に近いものとして取り扱える史料です。もちろん他の史料との比較が重要ではあります。
自分の意思で出家する頼家
まず、愚管抄が記述する比企能員の変の内容において、最後の方にある記述を一番最初に見てみましょう。
病にかかっていた頼家は、8月31日夜(二更は夜をご分割した二つ目のこと。だいたい十時くらい)に出家し、大江広元の家にいたようです。世の中心地は流行病や疫病の意味になります。
頼家は、出家後には一幡の世になったと思っていて、皆なかよくしていて、騒乱が起きているとは思っておらず、出家したときよりも病状は回復したとあります。この記述から、頼家はもともと一幡に家を譲るつもりであり、この出家のときに譲ったと意思表示していたのだろうと推測できます。
吾妻鏡では、色々終わった後の9月7日に政子の命令で出家したとあるのですが、愚管抄ではそもそも出家からスタートです。
頼家の危篤により後継者が一幡に
比企能員の変について、愚管抄を最初から見ていきます。
愚管抄の記載では、まず頼家の官位について記されます。
その後に、頼家が病気になり、一幡にすべてを譲るという話が出てきます。
建仁3年9月のころ、頼家の病が重くなり、命も危ういという状況になります。頼家には、比企能員娘との間に男子がおり、一幡という名で6歳だったとあります。6歳は数え年ですね、多分。
その一幡に家督を譲ることになるのですが、幼少なため外祖父である比企の力が強くなるという話です。
愚管抄では、それを読む人に周知するためか、全てを譲られた息子の一幡と、その外祖父比企能員についての説明が入っています。一幡の母は比企能員の娘であり、比企能員が外祖父として力を持つことを強調する記述です。
また、愚管抄では比企能員を阿波国出身としています。これは安房の間違いとされることもありますが、比企氏はもともと京にいたため、阿波もあながち間違いとは言えないのではと思いますが、実際のところは不明です。
とりあえず、幼い当主が鎌倉殿になるため、その外祖父の比企氏が権力を握ることになり、それに反発する勢力が出てくるというのが、話の筋になります。
反発する勢力はもちろん北条時政とその一派になります。
実朝を立てて能員を殺す時政
最初にも書きましたが、頼家は一幡にすべてを譲ったと思っていたようです。
幼少である一幡が家督を継いだ場合、一番力を持つのは外祖父の比企能員です。比企能員にとっても願ったりかなったりですね。そうして能員は実権を握ろうとしていたのですが、それに待ったをかけるのが北条時政です。
北条時政は、一幡が家督を継ぐことを聞き、頼家の弟の千幡も頼朝がかわいがっていた子供であり、千幡が頼家の後を継ぐべきと思って、9月2日(20日は誤り)に能員を呼び寄せ、天野遠景を能員に組み付かせ、新田忠常に刺殺させたとあります。また、時政は頼家がいた大江広元の邸宅にも武士を送っていたとあります。
梶原景時の追放で書きましたが、玉葉の記述から、実朝を推していた一派があったことがわかっています。玉葉に時政の名前はありませんが、外祖父の時政が一番蓋然性が高いでしょう。
梶原景時の件では「讒言」とされてしまった実朝擁立ですが、のちの時政の動きを見るのならば、讒言で済ますべきではなかったのでしょう。
細部の描き方は少し違いますが、能員を討ち取る天野遠景と仁田忠常の名前は吾妻鏡と同じです。
ですが、事の起こりは吾妻鏡と大きく違います。
吾妻鏡では、千幡と一幡の分割相続に不満のあった比企能員が、時政を討とうとしたことからスタートしますが、愚管抄では、頼家の後を一幡が継ぐことで、能員に権力が集中することを不満とした時政が、比企能員を討つという話です。
どちらが正しいんでしょうね。
一幡を狙う時政
時政の追及はまだ続きます。
能員を討ち取った時政ですが、一幡をも討ち取るために動いていたようで、手勢を一幡の館に向かわせていたようです。
ですが、母が一幡を抱いて小門から逃げ出したとあります。
一幡はなんとか逃げたようですが、一幡の館に立てこもった他の郎従はみな殺されます。
そのなかに糟屋有李がいて、彼に関しては敵も惜しんで逃がそうとしたのですが、ついに出てこず、有李は八人討ち取ったのちに討ち取られたとあります。
その外にも、比企に味方した者として笠原親景や渋川兼忠の名前が見えます。また比企能員の聟の児玉党なども見えます。
比企に味方したものはみな討たれたとあります。
仁田忠常の最後
ついでというわけではないですが、仁田忠常の最後も愚管抄には描かれています。義時と戦って討たれたとあります。
仁田忠常は、頼家までもがこのようになるとは思っていたなかったので、能員を殺したが、このようになったので、義時と戦い討たれたと、愚管抄にはあるのですが、この部分、いまいち文脈がつながらなくてよくわからないです。頼家まで追放されるとは思ってなくて…的な話でしょうか。後述する吾妻鏡との兼ね合いもあり、仁田忠常の最後はいまいちよくわからない話になります。
日付は吾妻鏡と合うので、復帰してきた頼家の命令があったという吾妻鏡の記述が正しいのかもしれません。
修善寺に押し込められる頼家
こうして、時政は比企の一派を一網打尽にすることに成功しました。
吾妻鏡のように詳細は描かれませんが、比企能員が呼び出されて殺されること、比企氏の一派が一網打尽にされること、仁田忠常が殺害されることは同じです。
吾妻鏡ではこのときに一幡も殺害されていたような記述なのですが、遺骸が多くてよくわからず、その時に来ていた着物の柄で遺骨の判断をするという、なんともあいまいな記述です。愚管抄のようにはっきりと逃げたとも書いてないですし、なんとも歯切れの悪い、遠回しな感じを受けます。
その後の頼家にとって不運だったのは、病気から快復してしまったことです。
愚管抄の記載の冒頭で取り上げた頼家出家の詳細が出てきますが、この件は頼家が伊豆に謹慎になった話の中の一部でした。頼家は9月10日には伊豆の修善寺に押し込められたとあります。
頼家は、出家後に一幡の世となっていると思っていたとあります。出家後に多少体調が良くなっていたのですが、9月2日に一幡を討つという話を聞いてしまいます。
頼家は「それはどういうことか」と言って太刀を取って立ち上がるが、病み上がりなためどうにもできず、政子に取り押さえられ、修善寺に押し込められたとあります。
その二か月後、逃げた一幡も結局は殺されます。
殺したのは、義時が放った追手でした。
義時は一幡を捕らえ、遣わした藤馬という郎党に一幡を刺し殺させ、亡骸を埋めたとあります。
吾妻鏡では、比企一族が一幡の館に立てこもって戦闘になった時に、一幡も亡くなったという書き方なのですが、愚管抄では2か月後に殺されていて、しかも義時が名指しで出てきます。
この騒乱のとき、時政と協力して、義時も中心的な立場で動いていたのではと推測できます。
頼家の最後
頼家の最後は比企能員の変から十か月後です。
政変のあった翌年の元久元年7月18日、修禅寺にて頼家は殺されます。
頼家は非常に強く抵抗したようです。
頼家の首にひもを括り付け、ふぐり(睾丸)をつかんで殺したとあります。
愚管抄には「誰が」頼家を殺したと明示的には書かれませんが、文脈からして、これは言うだけ野暮というものでしょう。
愚管抄の比企能員の変
愚管抄の比企能員の変は、一幡の外祖父として力を握ろうとした比企氏を、北条氏がアクションを起こして滅ぼした話と読めます。
頼家が病気になり、そのあとを継いだのは「一幡」で、それに不満をもった「北条氏」が「千幡」をかついで「比企氏」を排除したわけです。
そこには分割相続の話や、比企能員が時政を討とうとした話はありません。
一幡の後見として鎌倉を牛耳るであろう比企能員を、北条時政が打倒した、そういう話になります。
アクションの主体は北条なのです。
吾妻鏡の比企能員の変
次に、吾妻鏡の話を見てみましょう。
吾妻鏡がどういう史料なのかは以下で書きました。
吾妻鏡は1300年前後の執筆と推測される未完成の史書です。
読めば読むほど「草稿」だったんじゃない?と思うくらいに雑なのですが、公式が作った設定集の下書きみたいなものでして、鎌倉の、特に北条の主張を知ることができる貴重な史料になります。
問題点としては「北条」視点なので、北条に都合の良いことは良く書かれ、都合が悪いことは、あっさりだったり触れられなかったり、下手をすると嘘が書かれていたりします。
ただ、この取り繕いもかなり雑でして、書きっぱなしという印象が非常に強いです。統合性をとろうともしていない部分がたくさんあります。そのため、当時の下書き資料なのではと思うわけです。
吾妻鏡はなんとも扱いが難しい史料になります。
病になる頼家
事の始まりは静かに進行します。
建仁3年の3月から、頼家は体調を崩していたようです。ただ、この時の病気は数日後には治っているようで、重いものではなかったようです。
14日には回復して沐浴したとあります。
しかしながら、この病気の話が、スタートの合図でもありました。
阿野全成の配流と不吉な前兆
5月には阿野全成が謀叛の疑いで捕らえられ御所に監禁されます。『吾妻鏡』建仁3年5月19日に、武田信光が捕らえたとあり、後述する政子の言葉から、全成は駿河で捕まったことがわかります。
20日には全成の妾である政子妹の阿波局についても、頼家が身柄を引き渡すように迫りますが、政子はそれを拒否します。
25日、全成は常陸に配流となります。
その後、頼家は伊豆の狩倉に行き、山中に大穴を見つけ、その穴の中の大蛇和田胤長が切り殺すという話が載っています。
頼朝も巻き狩りとして各種の場所に向かっていたので、頼家もそういう活動をしていたのかもですが、吾妻鏡の頼家記執筆者は非常にやる気がなく、頼家の活動を詳しく書かないので、大体のことがよくわかりません。
また、以下に取り上げる話は「不吉なことが起こる前触れ」的な物語として、吾妻鏡によく出てくる「お話」のようなものでして、どうとらえてよいのかこれもまたよくわかりません。
3日、頼家は富士の狩倉にも出かけ、そこでも怪しい人穴を見つけます。頼家は仁田忠常らを使ってその人穴を調べますが、その日は帰ってこなかったとあります。
次の日に仁田忠常が戻ってきますが、怪しい光を見た後に郎従四人が死んでしまい、忠常はなんとか帰還できたという、なんともよくわからない話になります。
古老が言うには、浅間大菩薩のいる場所で、昔から見ることができない場所だった、とても恐ろしいことだ、とのことで。
なんとも不吉な予感漂うお話です。
頼家は十日には駿河から鎌倉に戻ったとあります。
阿野全成の処刑と不吉な前兆ふたたび
23日、阿野全成が処刑されます。
八田知家に命令し、下野国で誅殺したとあります。
さらに、24日には全成の息子頼全を誅殺するための使者が上洛します。
さらにさらに、吾妻鏡編纂者は不吉な話を繰り返し載せます。
30日には鶴岡若宮の宝殿の棟に止まっていた唐鳩が急に地面に落ちて死んでしまった、さらに、7月4日にも、鶴岡八幡宮の鳩が三羽お互いにかみ合って一羽が死んでしまったとあります。
さらにさらに7月9日、鶴岡八幡宮寺の閼伽棚の下で、鳩が頭が切れて一羽死んでいたとあります。僧は前例のないことだと驚いたとあります。
吾妻鏡編纂者、露骨。
病気がひどくなる頼家
多数のそれっぽい不吉な話とともに、ついに頼家の病気がひどくなります。
その最初の記述は建仁3年7月20日です。急に病気になり、かなり悪かった様子が描かれます。
23日には、頼家の病気はかなり悪くなっていたらしく、危急という言葉が使われています。それを受けて、祈祷が始められたとあります。占いでは、病気の理由は霊神の祟りだとあります。
25日には全成の息子頼全を討ち取った話が載っています。
頼家的にはもうそれどころではない病状だったのでしょうか。愚管抄などでは命の危機とありますし、危篤状態だったのかもしれませんが、吾妻鏡は微妙にそういう表現はしていないのですよね。
危篤だとかは書いてないのですが、頼家の次をどうするのか、新しい鎌倉殿をどうするのかという話になっていることから、頼家がかなり悪かったであろうことが、吾妻鏡でもわかります。
一幡と千幡の分割相続
吾妻鏡と愚管抄で、大きく異なっているのが一幡と千幡の分割相続の話です。
建仁3年8月27日、ついに頼家の病気が非常に悪くなり、後継者の話になります。
『吾妻鏡』建仁3年8月27日条では、関西38か国を千幡に、関東28か国を頼家の息子である一幡に譲るという話になります。
頼朝の孫で、頼家の息子である直系ともいえる一幡と、頼朝の息子である千幡による分割相続なわけですが、それはそのまま後ろ盾になっている比企氏と北条氏の争いとも見て取れます。
吾妻鏡は、比企能員はこの分割に不満があり、外戚の権威をかさに独立しようとして、千幡とその外戚を亡ぼそうとしたとあります。吾妻鏡編纂者の言い分が透けて見えてきますね。あくまで比企が悪者なわけです。
外戚の権威をって時政もそうやんけ…というツッコミは誰しもが入れたくなるのではと思います。
1日には鎌倉の物々しい雰囲気を伝え、衝突は避けられないという雰囲気を、吾妻鏡編纂者は演出します。
吾妻鏡編纂者は、あくまで頼家は祟りで病気になっていて、それは自業自得で、さらに比企は財産分与に不満があって、時政を滅ぼそうとしている…(そのため北条は抵抗する)という筋書きにしたいんでしょうね。
愚管抄とはかなり違いますね。
建仁3年9月2日 その1 比企能員の暗殺
吾妻鏡は9月2日について、非常に詳しく記載があるので、引用は少なめにかつ分割してみていきます。
この日の始まりは、比企能員の妻で一幡の母が、頼家の時政追討を進言することにあります。
他のことはともかくとして、とにかく時政を追討するべき、地頭職を2つにわけるなど、かえって国の混乱を招く。時政の一族がいることで、一幡の家督は奪われるだろうと、比企能員娘は、強く強く時政追討を頼家に進言するのです。
病床の頼家は驚いて比企能員を呼び、時政追討を了承したとあります。
愚管抄とは大きく違いますね。頼家は一幡の世になっていると思って、病気から少し回復したら、とんでもないことになっていたという話だったのですが、吾妻鏡では、時政追討を頼家が了承したという話になっています。
この時政追討の話を、障子を隔てて聞いていたのが政子です。
政子はこれを聞き、時政追討の陰謀を伝えるために、女房に時政を探させます。すでに名越(当時の時政の邸宅があったとされる)に帰ったと聞き、政子は書状を女房に託して時政を追わせます。
時政は政子の書状を下馬して受け取り、涙を流したとあります。
その後、時政は大江広元邸に行き、能員を討つべきかどうか相談しますが、広元は明言を避けたと吾妻鏡にはあります。
大江広元邸を出た時政は、天野遠景と仁田忠常に比企能員追討を命じますが、天野遠景は軍勢を出すことに反対し、比企能員を呼び出して討ち取ることを提案します。
これを受けてか、時政は仏像供養の儀式をするとの名目で、比企能員を呼び出します。そこで、雑事などについて話しましょうとあるので、仏像供養は名目で、政治的な話をしようというメッセージでもあったのかもですね。
能員はこれにすぐに向かいますよと答えますが、使者が退出した後に、能員の子息や一族が、行っては駄目だ、もし行くなら郎従らを武装させて行くべきだと、能員をいさめますが…。
能員はいたずらに世間を騒がすのは良くないし、政治的な話もあるだろうからと、息子らの忠告を聞き入れず、武装せずに時政を訪ねます。
逆に時政は完全武装で準備をしていました。
時政は甲冑をつけ、郎従も武装して館を固めていたようです。
そんな中に比企能員は北条邸を訪れます。郎党2人、雑色5人を共につれていたとあります。
能員が惣門を入り、沓脱に上がって妻戸を通り、北面に向かおうとしたときに、天野遠景と仁田忠常が能員の左右の手を取り、誅殺したとあります。
時政はそれを出居で見ていたとあります。
能員の従者は逃げ出して事情を告げ、能員の郎党は一幡の館に立てこもります。
建仁3年9月2日 その2 一幡の館を襲撃
立てこもった比企一族を「謀反」とみなし、政子の命令で追討の軍勢が派遣されます。この辺りも愚管抄と微妙にニュアンスが違いますね。
軍勢はそうそうたるメンバーで、北條義時、泰時、平賀朝政、小山朝政、結城朝光、畠山重忠、三浦義村、和田義盛、土肥惟平などなど、北条にゆかりのある人達の名前が見えます。
戦闘は非常に激しかったようで、夕方まで続いたとあります。
最終的には比企一族は館に火を放ち、一幡の前で自害したとあります。一幡も逃れることができなかったと、吾妻鏡にはあります。愚管抄では逃げたとありまして、ここも大きな違いの1つです。
能員の嫡男は女人に変装して戦場から脱出するのですが、逃げる途中で首を取られたとあります。
こうして比企一族はほぼほぼ全滅しました。
愚管抄と同一なのは粛清された人達の顔ぶれぐらいで、他の経緯は大きく異なっていましたね。
これが吾妻鏡編纂者が書きたかった、もしくは、こういう風に書くことしかできなかった、比企能員の変になります。
戦後処理
戦後処理ですが、比企派は粛清されます。
まず、3日の段階で、妻や妾、2歳の男子は縁があって和田義盛預かりになり、安房に配流となります。
一幡についても言及があります。源性が遺骨を拾おうと焼け跡を探したが、遺骸が多く混ざり見つからなかった。一幡の乳母の証言で、最後に着ていた服と同じ柄の小袖のはしが、とある遺骸の焼け跡からみつかり、その骨を拾って、源性は高野山に向かったとあります。
愚管抄では、一幡はこの時に逃げ延びたが2か月後に義時の刺客に殺されたとありますが、吾妻鏡では2日の戦闘時に亡くなったというニュアンスです。
愚管抄には載っていない粛清された人として、有名人なのは、島津忠久ですかね。薩摩の島津氏の祖になります。
島津忠久は比企の派閥だったようで、大隅・薩摩・日向の守護職を没収されています。比企の勢力がかなり力を持っていたことがわかりますね。
その他にも比企に味方した人達は粛清されているのが吾妻鏡からわかります。
比企の勢力は一掃された形になりました。
頼家の出家
吾妻鏡と愚管抄で大きく違うのが、頼家の出家についての話です。
愚管抄では、戦闘が起きる前の8月31日に、大江広元邸で出家しているとありますが、吾妻鏡では日付が異なっています。
まず、9月5日になると、頼家が病から少し回復したことがわかります。
頼家は一幡と比企氏がすでに滅亡したと聞き、鬱胸に耐えられず、和田義盛と仁田忠常に時政を討つように命じます。
頼家は堀親家にその書状を渡して和田義盛に届けさせますが、義盛は頼家の命令をきかず、その書状を時政に渡します。時政は親家をとらえ、工藤行光に誅殺させます。
翌日の6日には仁田忠常の最後が書かれます。
時政は、恩賞を与えるために、忠常を名越の邸宅に呼びますが、忠常は日暮れが近づいても帰らなかった。それを怪しんだ忠常の従者は屋敷に帰り、事情を忠常の弟に告げます。
弟たちは、忠常が頼家から時政追討の命令を受けていたことを知り、すでに時政に処断されたと思って、その義憤を晴らそうと義時のところに押しかけます。
義時はその時に御所にいて、戦闘になりますが、忠常の弟らを討ち取ります。
さらに忠常は名越の時政邸から帰る途中にこの話を聞き、「命を捨てる」と言って御所に参上し、加藤景廉に誅殺されます。
これらの一連の流れの最後、9月7日に、政子の命令で頼家が出家したと、吾妻鏡にはあります。
愚管抄では争いの前に出家し一幡に家督を譲ったという話でしたが、吾妻鏡の頼家は、2日に能員に時政追討を許し、その後の5日に仁田忠常や和田義盛にも時政追討を命じた上で、7日に政子に出家させられたとなっています。
実朝の征夷大将軍就任
吾妻鏡ではその後の10日に、千幡を将軍に推挙することになり、政子の元から時政の邸宅に移ったという話が載ります。後述しますが、猪隈関白記と矛盾する話になります。
また、10日の最後には御家人の所領を元の通りに認める書状を「時政」が出しているとあります。この書状は実物が残っていたりします。
時政はわかりやすく「自分が一番偉い」と公式文書でも伝えたわけですね。
ですが15日、千幡はすぐに時政邸から政子のところに戻ります。
阿波局の進言により、牧の方は守役としてふさわしくないとされ、政子は三浦義村と結城朝光を使いに出し、千幡を引き取ったとあります。
時政は事情を知らずに狼狽し、駿河局を通して政子に陳謝したが、成人するまでは政子が養育すると返答されたとあります。
ということで、この後に来る、時政・牧の方グループvs政子・義時グループの争いについても、伏線を張っているという吾妻鏡編纂者の苦労が見て取れます。
吾妻鏡ではこれで頼家記が終わりになります。そのため、年の途中ですが17巻が終わりになり、実朝の征夷大将軍就任から、実朝記18巻が始まります。
ちなみに日付は同じ建仁3年9月15日になります。
実朝が征夷大将軍に任命されたという文書が、9月15日に届いたという話です。
京都との往復時間を考えても、かなり早い時期に、鎌倉から院に要請があったことがうかがえます。
こうして実朝を傀儡とした北条時政の政権がスタートします。すぐにつぶれますけど。
頼家の最後
修禅寺に押し込められた頼家ですが、11月6日に政子の元に手紙を送ってきます。
深山にいてとても苦痛なので、以前の近習を自分のところに送って欲しい、安達景盛については身柄を引き渡して欲しい、という内容でした。
安達景盛さんは妾を頼家に寝取られた話が吾妻鏡に載っている人ですね。その後の歴史を見ても、重要な北条一派の一員になる人です。母親が比企氏されているため、頼家・比企に近い可能性があり、ここで裏切ったが故の、頼家の要望なのかなと邪推したりします(妾を奪う話はちょっと怪しい感じがするんですよね。吾妻鏡編纂者、何かしてないですかね、この話)。
もちろん、時政や政子らが頼家のそんな条件を受け入れるはずもなく、さらに手紙を送ってくることもやめるべきとされ、使者として三浦義村をたてたとあります。
その後、頼家について、吾妻鏡では全然触れられません。まるでなかったことにされたかのような。
そして、吾妻鏡の頼家の最後は、少し寂しいです。
そっけなく、ただ、亡くなったことだけが告げられます。
元久元年(1204)7月19日、伊豆からの飛脚で、18日に頼家が修禅寺で亡くなったと知らせが来たと、あります。
日付は愚管抄と同じです。こんなところだけは、愚管抄の記述と一致するんですよね。
吾妻鏡の比企能員の変
吾妻鏡の比企能員の変は、愚管抄の記述とは大きく違います。
一番の違いは、最初のアクションを起こすのが比企能員と頼家なところです。
比企能員と頼家が、時政追討で動き出すところが、そもそもの始まりとして描かれます。
愚管抄とは全く違いますね。
勝敗や犠牲者、粛清された人などは同じなのですが、その経緯や動機がまるで違うのが、比企能員の変の特長です。
あくまで北条は降りかかってきた火の粉を払っただけ(ということにしたい)というのが吾妻鏡編纂者の主張なのでしょう。
時政・義時の子孫が、吾妻鏡編纂者時代の北条得宗家なわけで、時政・義時、さらには泰時の正当性を汚すような書き方はできない、というのが良くわかります。
猪隈関白記の比企能員の変
最後に、猪隈関白記について少し触れます。
比企能員の変について、猪隈関白記や明月記に少しだけ記載があります。
『猪隈関白記』は近衛家実という関白になる人の日記です。頼朝の死の際に飲水の病と載せている記録でもあります。
この近衛家実さんは、父親の方が有名です。後白河と君臣合体の儀で有名な、藤原基通さんの息子さんになります。
そんな猪隈関白記に、ちょっと気になる話が載っています。
内容としては頼家が9月1日(朔日は1日のこと)に亡くなったという連絡が、9月7日に院に来たという話です。
9月2日が比企能員の変ですね。
頼家、まだ死んでないですよね。
頼家はまだ死んでないのですが、そういう連絡が院に来たという話が、猪隈関白記や明月記に載っているのです。
さらに、頼家の弟を征夷大将軍・従五位下に任じ、「実朝」という名を後鳥羽が自ら決めたとあります。
最初、頼家の子息と比企能員が討たれたとされているのですが、後から聞いた話として、頼家子息は生きていて、討たれたのは比企能員だけと追記されています。愚管抄の記述と一致しますね。京ではそういう認識だったというのがわかります。
この日記の記録は非常に重要でして、死んでいない頼家を死んだことにしているのがはっきりとわかります。誰かが嘘をついて院に工作をしているのがわってしまうわけです。
普通に考えて実朝を擁立した時政とそれに味方する武士・文官たちですよね。
吾妻鏡の話だけでは、この話の全体像はつかめないということが、よくわかる記録だなと思います。
おわりに
吾妻鏡をそのまま信じてはいけないというのがわかっていただけたでしょうか。
吾妻鏡編纂者は怪しいです。
かといって、他の史料が絶対に正しいとも限りません。
難しいですね。
ただ、このエピソードはまだ良いほうです。比較できる史料があります。吾妻鏡よりも同時代に近いものが存在します。
承久の乱とか…、どうしよう…、史料が…、史料が…。
他の史料と比較するとわかるのですが、吾妻鏡は要注意です。もちろん吾妻鏡も貴重な史料の1つではありますが。
吾妻鏡にしか載っていない話は、参考程度にしとくと良いと思うんですけどね。吾妻鏡だけに記載されるエピソードが、意外と歴史として語られていたりするので、この話を読んでいただくと、筆者が「吾妻鏡は危ないよ~」と言っている意味をわかっていただけるのではないかと。
吾妻鏡と愚管抄の記述は、「北条が勝ち」「比企派が粛清」されたこと、「頼家が追放」されたことという、大筋の内容は同じです。
しかし、その他の部分は大きく異なります。
何かを察するにあまりあるような、そんな吾妻鏡編纂者の書きっぷりが気になる、比企能員の変と頼家の最後でした。
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