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比企能員の変と頼家追放

比企能員の変と頼家追放に関しては、大きく分けて二つの記録があります。

それは吾妻鏡と愚管抄です。

二つの記録は、同じことを書いているのに、多くの点で異なっています。

多くの人が知っている話は、吾妻鏡の方なのでしょう。

しかしながら、愚管抄の話を無視することはできません。

というわけで、二つの史料を比べてみようというのが、今回の主旨になります。

頼家の最後についても、吾妻鏡と愚管抄は対照的です。最後をきちんと表現する愚管抄と、最後の詳細を書かない吾妻鏡。

1300年付近の北条得宗家フィルターが入ると記録がどうなるのか、よくわかる良い例の一つです。吾妻鏡は危険ですね。

というわけで、史料を見ていきましょう。

愚管抄の比企能員の変

今回は愚管抄の記述から見ていきます。

後から吾妻鏡を読むと、違いが良くわかってとても面白いです。

スタンスの違いが、こうも物事の描き方に影響を与えるのだなと、わかっていただけるのではと思います。

『愚管抄』は九条兼実の弟でもある天台座主の慈円が書いたとされる書です。慈円のもつ仏教的な世界観をベースに、歴史に対する洞察が書かれていたりします。

日記のように毎日つけたものではなく、要約した記録になりますが、同時代史料に近いものとして取り扱える史料です。もちろん他の史料との比較が重要ではあります。

自分の意思で出家する頼家

まず、愚管抄が記述する比企能員の変の内容において、最後の方にある記述を一番最初に見てみましょう。

頼家ハ世ノ中心チノ病ニテ、八月晦日ニカウニテ出家シテ、廣元ガモトニスエタル程ニ、出家ノ後ハ一万御前ノ世ニ成ヌトテ、皆中ヨクテ、カクシナサルベシトモ思ハデ有ケルニ、ヤガテ出家ノスナハチヨリ病ハヨロシク成タリケル。

『愚管抄』

病にかかっていた頼家は、8月31日夜(二更は夜をご分割した二つ目のこと。だいたい十時くらい)に出家し、大江広元の家にいたようです。世の中心地は流行病や疫病の意味になります。

頼家は、出家後には一幡の世になったと思っていて、皆なかよくしていて、騒乱が起きているとは思っておらず、出家したときよりも病状は回復したとあります。この記述から、頼家はもともと一幡に家を譲るつもりであり、この出家のときに譲ったと意思表示していたのだろうと推測できます。

吾妻鏡では、色々終わった後の9月7日に政子の命令で出家したとあるのですが、愚管抄ではそもそも出家からスタートです。

頼家の危篤により後継者が一幡に

比企能員の変について、愚管抄を最初から見ていきます。

愚管抄の記載では、まず頼家の官位について記されます。

その後に、頼家が病気になり、一幡にすべてを譲るという話が出てきます。

建仁3年9月のころ、頼家の病が重くなり、命も危ういという状況になります。頼家には、比企能員娘との間に男子がおり、一幡という名で6歳だったとあります。6歳は数え年ですね、多分。

その一幡に家督を譲ることになるのですが、幼少なため外祖父である比企の力が強くなるという話です。

サテ又関東将軍ノ方ニハ、頼家又叙二位、左衛門督ニ成テ、頼朝ノ将軍ガアトニ候ケレバ、範光中納言弁ナリシ時、御使ニツカハシナドシテ有ケル程ニ、建仁三年九月ノコロヲイ、大事ノ病ヲウケテスデニ死ントシケルニ、ヒキノ判官能員〈阿波國ノ者也。〉ト云者ノムスメヲ思テ、男子ヲウマセタリケルニ、六ニ成ケル。一万御前ト云ケル。ソレニ皆家ヲ引ウツシテ、能員ガ世ニテアラントテシケル由ヲ、

『愚管抄』

愚管抄では、それを読む人に周知するためか、全てを譲られた息子の一幡と、その外祖父比企能員についての説明が入っています。一幡の母は比企能員の娘であり、比企能員が外祖父として力を持つことを強調する記述です。

また、愚管抄では比企能員を阿波国出身としています。これは安房の間違いとされることもありますが、比企氏はもともと京にいたため、阿波もあながち間違いとは言えないのではと思いますが、実際のところは不明です。

とりあえず、幼い当主が鎌倉殿になるため、その外祖父の比企氏が権力を握ることになり、それに反発する勢力が出てくるというのが、話の筋になります。

反発する勢力はもちろん北条時政とその一派になります。

実朝を立てて能員を殺す時政

最初にも書きましたが、頼家は一幡にすべてを譲ったと思っていたようです。

幼少である一幡が家督を継いだ場合、一番力を持つのは外祖父の比企能員です。比企能員にとっても願ったりかなったりですね。そうして能員は実権を握ろうとしていたのですが、それに待ったをかけるのが北条時政です。

母方ノヲジ北條時政、遠江守ニ成テアリケルガ聞テ、頼家ガヲトト千万御前〔実朝〕トテ頼朝モ愛子ニテアリシ、ソレコソト思テ、同九月廿日能員ヲヨビトリテ、ヤガテ遠景入道ニイダカセテ、日田四郎ニサシコロサセテ、ヤガテ武士ヲヤリテ頼家ガヤミフシタルヲ、オホエ廣元ガモトニテ病セテ、ソレニスエテケリ。

『愚管抄』

北条時政は、一幡が家督を継ぐことを聞き、頼家の弟の千幡も頼朝がかわいがっていた子供であり、千幡が頼家の後を継ぐべきと思って、9月2日(20日は誤り)に能員を呼び寄せ、天野遠景を能員に組み付かせ、新田忠常に刺殺させたとあります。また、時政は頼家がいた大江広元の邸宅にも武士を送っていたとあります。

梶原景時の追放で書きましたが、玉葉の記述から、実朝を推していた一派があったことがわかっています。玉葉に時政の名前はありませんが、外祖父の時政が一番蓋然性が高いでしょう。

梶原景時の件では「讒言」とされてしまった実朝擁立ですが、のちの時政の動きを見るのならば、讒言で済ますべきではなかったのでしょう。

細部の描き方は少し違いますが、能員を討ち取る天野遠景と仁田忠常の名前は吾妻鏡と同じです。

ですが、事の起こりは吾妻鏡と大きく違います。

吾妻鏡では、千幡と一幡の分割相続に不満のあった比企能員が、時政を討とうとしたことからスタートしますが、愚管抄では、頼家の後を一幡が継ぐことで、能員に権力が集中することを不満とした時政が、比企能員を討つという話です。

どちらが正しいんでしょうね。

一幡を狙う時政

時政の追及はまだ続きます。

能員を討ち取った時政ですが、一幡をも討ち取るために動いていたようで、手勢を一幡の館に向かわせていたようです。

ですが、母が一幡を抱いて小門から逃げ出したとあります。

サテ本躰ノ家ニナラヒテ、子ノ一万御前ハアル人ヤリテウタントシケレバ、母イダキテ小門ヨリ出逃ニケリ。サレドソレニ籠リタル程ノ郎等ノハヂアルハ出ザリケレバ、皆ウチ殺テケリ。ソノ中ニカスヤ有末ヲバ由ナシ。出セヨ出セヨト敵モヲシミテ云ケルヲ、ツイニ出ズシテ敵八人トリテ打死シケルヲゾ、人ハナノメナラズヲシミケル。

『愚管抄』

一幡はなんとか逃げたようですが、一幡の館に立てこもった他の郎従はみな殺されます。

そのなかに糟屋有李がいて、彼に関しては敵も惜しんで逃がそうとしたのですが、ついに出てこず、有李は八人討ち取ったのちに討ち取られたとあります。

其外笠原ノ十郎左衛門親景、澁河ノ刑部兼忠ナド云者ミナウタレヌ。ヒキガ子共、ムコノ児玉党ナド、アリアイタル者ハ皆ウタレニケリ。是ハ建仁三年九月二日ノ事也。

『愚管抄』

その外にも、比企に味方した者として笠原親景や渋川兼忠の名前が見えます。また比企能員の聟の児玉党なども見えます。

比企に味方したものはみな討たれたとあります。

仁田忠常の最後

ついでというわけではないですが、仁田忠常の最後も愚管抄には描かれています。義時と戦って討たれたとあります。

仁田忠常は、頼家までもがこのようになるとは思っていたなかったので、能員を殺したが、このようになったので、義時と戦い討たれたと、愚管抄にはあるのですが、この部分、いまいち文脈がつながらなくてよくわからないです。頼家まで追放されるとは思ってなくて…的な話でしょうか。後述する吾妻鏡との兼ね合いもあり、仁田忠常の最後はいまいちよくわからない話になります。

日付は吾妻鏡と合うので、復帰してきた頼家の命令があったという吾妻鏡の記述が正しいのかもしれません。

同五日日田四郎ト云者ハ。頼家ガコトナル近習ノ者也。頼家マデカカルベシトモシラデ。能員ヲモサシコロシケルニ。コノヤウニ成ニケルニ。本躰ノ頼家ガ家ノ侍ノ西東ナルニ。義時ト二人アリケルガヨキタタカイシテウタレニケリ。

『愚管抄』

修善寺に押し込められる頼家

こうして、時政は比企の一派を一網打尽にすることに成功しました。

吾妻鏡のように詳細は描かれませんが、比企能員が呼び出されて殺されること、比企氏の一派が一網打尽にされること、仁田忠常が殺害されることは同じです。

吾妻鏡ではこのときに一幡も殺害されていたような記述なのですが、遺骸が多くてよくわからず、その時に来ていた着物の柄で遺骨の判断をするという、なんともあいまいな記述です。愚管抄のようにはっきりと逃げたとも書いてないですし、なんとも歯切れの悪い、遠回しな感じを受けます。

その後の頼家にとって不運だったのは、病気から快復してしまったことです。

愚管抄の記載の冒頭で取り上げた頼家出家の詳細が出てきますが、この件は頼家が伊豆に謹慎になった話の中の一部でした。頼家は9月10日には伊豆の修善寺に押し込められたとあります。

サテソノ十日頼家入道ヲバ、伊豆ノ修禅寺云山中ナル堂ヘヲシコメテケリ。頼家ハ世ノ中心チノ病ニテ、八月晦日ニカウニテ出家シテ、廣元ガモトニスエタル程ニ、出家ノ後ハ一万御前ノ世ニ成ヌトテ、皆中ヨクテ、カクシナサルベシトモ思ハデ有ケルニ、ヤガテ出家ノスナハチヨリ病ハヨロシク成タリケル。

『愚管抄』

頼家は、出家後に一幡の世となっていると思っていたとあります。出家後に多少体調が良くなっていたのですが、9月2日に一幡を討つという話を聞いてしまいます。

頼家は「それはどういうことか」と言って太刀を取って立ち上がるが、病み上がりなためどうにもできず、政子に取り押さえられ、修善寺に押し込められたとあります。

九月二日カク一万御前ヲウツト聞テ、コハイカニト云テ、カタハラナル太刀ヲトリテ、フト立ケレバ、病ノナゴリ誠ニハカナハヌニ、母ノ尼モトリツキナドシテ、ヤガテ守リテ修禅寺ニヲシコメテケリ。悲シキ事ナリ。

『愚管抄』

その二か月後、逃げた一幡も結局は殺されます。

殺したのは、義時が放った追手でした。

義時は一幡を捕らえ、遣わした藤馬という郎党に一幡を刺し殺させ、亡骸を埋めたとあります。

サテソノ年ノ十一月三日、終ニ一万若ヲバ義時トリテヲキテ、藤馬ト云郎等ニサシコロサセテウヅミテケリ。

『愚管抄』

吾妻鏡では、比企一族が一幡の館に立てこもって戦闘になった時に、一幡も亡くなったという書き方なのですが、愚管抄では2か月後に殺されていて、しかも義時が名指しで出てきます。

この騒乱のとき、時政と協力して、義時も中心的な立場で動いていたのではと推測できます。

頼家の最後

頼家の最後は比企能員の変から十か月後です。

政変のあった翌年の元久元年7月18日、修禅寺にて頼家は殺されます。

サテ次ノ年ハ元久元年七月十八日ニ、修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ、頸ニヲヲツケ、フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ、トカク云バカリナキ事ドモナリ。イカデカイカデカソノムクイナカラン。人ハイミジクタケキモ力及バヌコト也ケリ。

『愚管抄』

頼家は非常に強く抵抗したようです。

頼家の首にひもを括り付け、ふぐり(睾丸)をつかんで殺したとあります。

愚管抄には「誰が」頼家を殺したと明示的には書かれませんが、文脈からして、これは言うだけ野暮というものでしょう。

愚管抄の比企能員の変

愚管抄の比企能員の変は、一幡の外祖父として力を握ろうとした比企氏を、北条氏がアクションを起こして滅ぼした話と読めます。

頼家が病気になり、そのあとを継いだのは「一幡」で、それに不満をもった「北条氏」が「千幡」をかついで「比企氏」を排除したわけです。

そこには分割相続の話や、比企能員が時政を討とうとした話はありません。

一幡の後見として鎌倉を牛耳るであろう比企能員を、北条時政が打倒した、そういう話になります。

アクションの主体は北条なのです。

吾妻鏡の比企能員の変

次に、吾妻鏡の話を見てみましょう。

吾妻鏡がどういう史料なのかは以下で書きました。

吾妻鏡は1300年前後の執筆と推測される未完成の史書です。

読めば読むほど「草稿」だったんじゃない?と思うくらいに雑なのですが、公式が作った設定集の下書きみたいなものでして、鎌倉の、特に北条の主張を知ることができる貴重な史料になります。

問題点としては「北条」視点なので、北条に都合の良いことは良く書かれ、都合が悪いことは、あっさりだったり触れられなかったり、下手をすると嘘が書かれていたりします。

ただ、この取り繕いもかなり雑でして、書きっぱなしという印象が非常に強いです。統合性をとろうともしていない部分がたくさんあります。そのため、当時の下書き資料なのではと思うわけです。

吾妻鏡はなんとも扱いが難しい史料になります。

病になる頼家

事の始まりは静かに進行します。

建仁3年の3月から、頼家は体調を崩していたようです。ただ、この時の病気は数日後には治っているようで、重いものではなかったようです。

十日 己卯 自去夜亥尅、将軍家、俄以御病悩、而依有御夢想之告、駿河国方上御厨、止地頭武田五郎信光所務、寄附太神宮領、広元朝臣、奉行之

『吾妻鏡』建仁3年3月10日

14日には回復して沐浴したとあります。

十四日 癸未 将軍家、御不例平愈之後、御沐浴也

『吾妻鏡』建仁3年3月14日

しかしながら、この病気の話が、スタートの合図でもありました。

阿野全成の配流と不吉な前兆

5月には阿野全成が謀叛の疑いで捕らえられ御所に監禁されます。『吾妻鏡』建仁3年5月19日に、武田信光が捕らえたとあり、後述する政子の言葉から、全成は駿河で捕まったことがわかります。

十九日 丙戌 子尅、阿野法橋全成〈幕下将軍御舎弟〉依有謀叛之聞、被召篭御所中、武田五郎信光虜之、即被預于宇都宮四郎兵衛尉〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年5月19日

20日には全成の妾である政子妹の阿波局についても、頼家が身柄を引き渡すように迫りますが、政子はそれを拒否します。

廿日 丁亥 将軍家、以比企四郎、被申尼御台所云、法橋全成、依企叛逆所虜也。彼妾阿波局、官仕殿内歟。早召給、有可尋問子細〈云云〉。如然事、不可令知女姓歟。随而全成、去二月比、下向駿州之後、不通音信、更無所疑之由、被申御返事、不被出進之〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年5月20日

25日、全成は常陸に配流となります。

廿五日 壬辰 申剋、阿野法橋全成、配常陸国

『吾妻鏡』建仁3年5月25日

その後、頼家は伊豆の狩倉に行き、山中に大穴を見つけ、その穴の中の大蛇和田胤長が切り殺すという話が載っています。

頼朝も巻き狩りとして各種の場所に向かっていたので、頼家もそういう活動をしていたのかもですが、吾妻鏡の頼家記執筆者は非常にやる気がなく、頼家の活動を詳しく書かないので、大体のことがよくわかりません。

また、以下に取り上げる話は「不吉なことが起こる前触れ」的な物語として、吾妻鏡によく出てくる「お話」のようなものでして、どうとらえてよいのかこれもまたよくわかりません。

一日 丁酉晴 将軍家著御伊豆奥狩倉、而号伊東崎之山中、有大洞。不知其源遠、将軍恠之、巳尅、遣和田平太胤長、被見之。胤長、挙火入彼穴、酉刻帰参。申云、此穴行程数十里、暗兮不見日光、有一大蛇、擬呑胤長之間、抜劔斬殺訖〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年6月1日

3日、頼家は富士の狩倉にも出かけ、そこでも怪しい人穴を見つけます。頼家は仁田忠常らを使ってその人穴を調べますが、その日は帰ってこなかったとあります。

三日 己亥晴 将軍家、渡御于駿河国冨士狩倉。彼山麓、又有大谷。〈号之人穴〉為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人、忠常、賜御劔〈重宝、〉入人穴。今日不帰出幕下畢

『吾妻鏡』建仁3年6月3日

次の日に仁田忠常が戻ってきますが、怪しい光を見た後に郎従四人が死んでしまい、忠常はなんとか帰還できたという、なんともよくわからない話になります。

四日 庚子陰 巳尅仁田四郎忠常、出人穴帰参徃還経一日一夜也。此洞狭兮、不能廻踵、不意進行。又暗兮、令痛心神主従各取松明、路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔、不知幾千万、其先途、大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外、無他、爰当火光河向見竒特之間、郎従四人、忽死亡。而忠常依彼霊之訓、投入恩賜御劔於件河、全命帰参〈云云〉。古老云、是浅間大菩薩御在所、徃昔以降、敢不得見其所〈云云〉。今次第尤可恐乎〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年6月4日

古老が言うには、浅間大菩薩のいる場所で、昔から見ることができない場所だった、とても恐ろしいことだ、とのことで。

なんとも不吉な予感漂うお話です。

頼家は十日には駿河から鎌倉に戻ったとあります。

阿野全成の処刑と不吉な前兆ふたたび

23日、阿野全成が処刑されます。

廿三日 己未 八田知家奉仰、於下野国、誅阿野法橋全成

『吾妻鏡』建仁3年6月23日

八田知家に命令し、下野国で誅殺したとあります。

さらに、24日には全成の息子頼全を誅殺するための使者が上洛します。

廿四日 庚申江兵衛尉能範、為使節上洛。是全成息可誅之由、被仰相摸権守、佐々木左衛門尉等故也

『吾妻鏡』建仁3年6月24日

さらにさらに、吾妻鏡編纂者は不吉な話を繰り返し載せます。

30日には鶴岡若宮の宝殿の棟に止まっていた唐鳩が急に地面に落ちて死んでしまった、さらに、7月4日にも、鶴岡八幡宮の鳩が三羽お互いにかみ合って一羽が死んでしまったとあります。

卅日 丙寅 辰尅、鶴岳若宮宝殿棟上、唐鳩一羽居。頃之、頓落地死畢、人竒之

『吾妻鏡』建仁3年6月30日

四日 庚午 未尅鶴岡八幡宮、自経所与下廻廊造合之上、鴿三食合、落地一羽死

『吾妻鏡』建仁3年7月4日

さらにさらに7月9日、鶴岡八幡宮寺の閼伽棚の下で、鳩が頭が切れて一羽死んでいたとあります。僧は前例のないことだと驚いたとあります。

九日 乙亥 辰刻、同宮寺閼伽棚下、鳩一羽頭切而死。此事無先規之由、供僧等驚申之

『吾妻鏡』建仁3年7月9日

吾妻鏡編纂者、露骨。

病気がひどくなる頼家

多数のそれっぽい不吉な話とともに、ついに頼家の病気がひどくなります。

その最初の記述は建仁3年7月20日です。急に病気になり、かなり悪かった様子が描かれます。

廿日 丙戌晴 戌刻将軍家、俄以御病悩。御心神辛苦、非直事也〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年7月20日

23日には、頼家の病気はかなり悪くなっていたらしく、危急という言葉が使われています。それを受けて、祈祷が始められたとあります。占いでは、病気の理由は霊神の祟りだとあります。

廿三日 己丑 御病悩既危急之間、被始行数箇御祈祷等、而卜筮之所告、霊神之崇〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年7月23日

25日には全成の息子頼全を討ち取った話が載っています。

廿五日 辛卯 相摸権守使者、自京都到著。申云、去十六日、催遣在京御家人等、於東山延年寺、窺播磨公頼全、〈全成法橋息〉令誅戮之〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年7月25日

頼家的にはもうそれどころではない病状だったのでしょうか。愚管抄などでは命の危機とありますし、危篤状態だったのかもしれませんが、吾妻鏡は微妙にそういう表現はしていないのですよね。

危篤だとかは書いてないのですが、頼家の次をどうするのか、新しい鎌倉殿をどうするのかという話になっていることから、頼家がかなり悪かったであろうことが、吾妻鏡でもわかります。

一幡と千幡の分割相続

吾妻鏡と愚管抄で、大きく異なっているのが一幡と千幡の分割相続の話です。

建仁3年8月27日、ついに頼家の病気が非常に悪くなり、後継者の話になります。

『吾妻鏡』建仁3年8月27日条では、関西38か国を千幡に、関東28か国を頼家の息子である一幡に譲るという話になります。

頼朝の孫で、頼家の息子である直系ともいえる一幡と、頼朝の息子である千幡による分割相続なわけですが、それはそのまま後ろ盾になっている比企氏と北条氏の争いとも見て取れます。

廿七日 壬戌 将軍家御不例、縡危急之間、有御譲補沙汰、以関西三十八箇国地頭職、被奉譲舎弟千幡君。〈十歳〉以関東二十八箇国地頭并惣守護職、被充御長子一幡君、〈六歳〉爰家督御外祖、比企判官能員、潜憤怨譲補于舎弟事募外戚之権威、挟独歩志之間、企叛逆、擬奉謀千幡君并彼外家已下〈云云〉、

『吾妻鏡』建仁3年8月27日

吾妻鏡は、比企能員はこの分割に不満があり、外戚の権威をかさに独立しようとして、千幡とその外戚を亡ぼそうとしたとあります。吾妻鏡編纂者の言い分が透けて見えてきますね。あくまで比企が悪者なわけです。

外戚の権威をって時政もそうやんけ…というツッコミは誰しもが入れたくなるのではと思います。

1日には鎌倉の物々しい雰囲気を伝え、衝突は避けられないという雰囲気を、吾妻鏡編纂者は演出します。

一日 丙寅 将軍家御病悩事、祈療共如無其験依之鎌倉中、太物怱、国々御家人等、競参。人所相謂、家督姪戚等不和儀、忽出来歟関東安否、盖斯時也

『吾妻鏡』建仁3年9月1日

吾妻鏡編纂者は、あくまで頼家は祟りで病気になっていて、それは自業自得で、さらに比企は財産分与に不満があって、時政を滅ぼそうとしている…(そのため北条は抵抗する)という筋書きにしたいんでしょうね。

愚管抄とはかなり違いますね。

建仁3年9月2日 その1 比企能員の暗殺

吾妻鏡は9月2日について、非常に詳しく記載があるので、引用は少なめにかつ分割してみていきます。

この日の始まりは、比企能員の妻で一幡の母が、頼家の時政追討を進言することにあります。

今朝廷尉能員、以息女〈将軍家妾、若公母儀也。元号若狭局〉訴申北条殿。偏可追討由也。凡家督外、於被相分地頭職者、威権分于二、挑争之条不可疑之。為子為弟。雖似静謐御討、還所招乱国基也。遠州一族、被存者、被奪家督世之事、又以無異儀〈云云〉。將軍驚而招能員於病床、令談合給。追討之儀、且及許諾。

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

他のことはともかくとして、とにかく時政を追討するべき、地頭職を2つにわけるなど、かえって国の混乱を招く。時政の一族がいることで、一幡の家督は奪われるだろうと、比企能員娘は、強く強く時政追討を頼家に進言するのです。

病床の頼家は驚いて比企能員を呼び、時政追討を了承したとあります。

愚管抄とは大きく違いますね。頼家は一幡の世になっていると思って、病気から少し回復したら、とんでもないことになっていたという話だったのですが、吾妻鏡では、時政追討を頼家が了承したという話になっています。

この時政追討の話を、障子を隔てて聞いていたのが政子です。

而尼御台所、隔障子、潜令伺聞此密事給、為被告申以女房被奉尋遠州。為修仏事、已帰名越給之由令申之間、雖非委細之趣、聊載此子細於御書、付美女被進之。彼女奉奔付于路次、捧御書。遠州下馬拝見之、頗落涙、更乗馬之後、止駕暫有思案之気、遂廻轡渡御于大膳大夫広元朝臣。

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

政子はこれを聞き、時政追討の陰謀を伝えるために、女房に時政を探させます。すでに名越(当時の時政の邸宅があったとされる)に帰ったと聞き、政子は書状を女房に託して時政を追わせます。

時政は政子の書状を下馬して受け取り、涙を流したとあります。

その後、時政は大江広元邸に行き、能員を討つべきかどうか相談しますが、広元は明言を避けたと吾妻鏡にはあります。

大江広元邸を出た時政は、天野遠景と仁田忠常に比企能員追討を命じますが、天野遠景は軍勢を出すことに反対し、比企能員を呼び出して討ち取ることを提案します。

遠州聞此詞、即起座給、天野民部入道蓮景、仁田四郎忠常等、為御共、於莅柄社前、又扣御駕、被仰件両人云、能員依企謀叛、今日可追伐、各可為討手者。蓮景云、不能発軍兵、召寄御前、可被誅之。彼老翁有何事之哉、者令還御亭給之後、此事猶有儀重。

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

これを受けてか、時政は仏像供養の儀式をするとの名目で、比企能員を呼び出します。そこで、雑事などについて話しましょうとあるので、仏像供養は名目で、政治的な話をしようというメッセージでもあったのかもですね。

遠州、以工藤五郎為使、被仰遣能員之許云、依宿願有仏像供養之儀、御来臨、可被聴聞歟。且又以次可談雑事。

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

能員はこれにすぐに向かいますよと答えますが、使者が退出した後に、能員の子息や一族が、行っては駄目だ、もし行くなら郎従らを武装させて行くべきだと、能員をいさめますが…。

者早申可予参之由、御使退去之後、廷尉子息親類等、諫云、日来非無計儀事。若依有風聞之旨預専使歟、無左右不可被参向、縦雖可被参、令家子郎従等、著甲冑帯弓矢、可被相従〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

能員はいたずらに世間を騒がすのは良くないし、政治的な話もあるだろうからと、息子らの忠告を聞き入れず、武装せずに時政を訪ねます。

能員云、如然之行粧、敢非警固之備、謬可成人疑之因也。当時能員、猶召具甲冑兵士者、鎌倉中諸人、皆可遽騒其事不可然。且為仏事結縁、且就御譲補等事、有可被仰合事哉、

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

逆に時政は完全武装で準備をしていました。

時政は甲冑をつけ、郎従も武装して館を固めていたようです。

そんな中に比企能員は北条邸を訪れます。郎党2人、雑色5人を共につれていたとあります。

能員が惣門を入り、沓脱に上がって妻戸を通り、北面に向かおうとしたときに、天野遠景と仁田忠常が能員の左右の手を取り、誅殺したとあります。

蓮景、忠常、著腹巻搆于西南脇戸内、小時廷尉参入。著平礼白水干葛袴、駕黒馬、郎等二人雑色五人有共。入惣門、昇廊沓脱、通妻戸、擬参北面、于時蓮景、忠常等、立向于造合脇戸之砌、取廷尉左右手、引休于山本、行誅戮、不廻踵。遠州、出於出居、見之給〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

時政はそれを出居で見ていたとあります。

能員の従者は逃げ出して事情を告げ、能員の郎党は一幡の館に立てこもります。

建仁3年9月2日 その2 一幡の館を襲撃

立てこもった比企一族を「謀反」とみなし、政子の命令で追討の軍勢が派遣されます。この辺りも愚管抄と微妙にニュアンスが違いますね。

軍勢はそうそうたるメンバーで、北條義時、泰時、平賀朝政、小山朝政、結城朝光、畠山重忠、三浦義村、和田義盛、土肥惟平などなど、北条にゆかりのある人達の名前が見えます。

謀叛之間、未三尅、依尼御台所之仰、為追討件輩、被差遣軍兵、所謂江馬四郎殿、同太郎主、武蔵守朝政、小山左衛門尉朝政、同五郎宗政、同七郎朝光、畠山二郎重忠、榛谷四郎重朝、三浦平六兵衛尉義村、和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛、同小四郎景長、土肥先二郎帷光、後藤左衛門尉信康、所右衛門尉朝光、尾藤次知景、工藤小次郎行光、金窪太郎行親、加藤次郎景廉、同太郎景朝、仁田四郎忠常、已下、如雲霞、各襲到彼所。

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

戦闘は非常に激しかったようで、夕方まで続いたとあります。

最終的には比企一族は館に火を放ち、一幡の前で自害したとあります。一幡も逃れることができなかったと、吾妻鏡にはあります。愚管抄では逃げたとありまして、ここも大きな違いの1つです。

能員の嫡男は女人に変装して戦場から脱出するのですが、逃げる途中で首を取られたとあります。

比企三郎、同四郎、同五郎、河原田次郎、〈能員猶子〉笠原十郎左衛門尉親景、中山五郎為重、糟屋藤太兵衛尉有季、〈已上三人能員聟〉等、防戦、敢不愁死之間、挑戦及申尅、景廉、知景、々長等、并郎従数輩、被疵、頗引退。重忠、入替壮力之郎従、責攻之、親景等、不敵彼武威、放火于舘、各於若君御前、自殺。若君同不免此殃給。廷尉嫡男、余一兵衛尉、仮姿於女人、雖遁出戦場、於路次、為景廉被梟首、其後、遠州、遣大岳判官時親、被実検死骸等〈云云〉。入夜被誅渋河刑部烝、依為能員之舅也

『吾妻鏡』建仁3年9月2日 抜粋

こうして比企一族はほぼほぼ全滅しました。

愚管抄と同一なのは粛清された人達の顔ぶれぐらいで、他の経緯は大きく異なっていましたね。

これが吾妻鏡編纂者が書きたかった、もしくは、こういう風に書くことしかできなかった、比企能員の変になります。

戦後処理

戦後処理ですが、比企派は粛清されます。

まず、3日の段階で、妻や妾、2歳の男子は縁があって和田義盛預かりになり、安房に配流となります。

一幡についても言及があります。源性が遺骨を拾おうと焼け跡を探したが、遺骸が多く混ざり見つからなかった。一幡の乳母の証言で、最後に着ていた服と同じ柄の小袖のはしが、とある遺骸の焼け跡からみつかり、その骨を拾って、源性は高野山に向かったとあります。

三日 戊辰 被捜求能員余党等、或、流刑或死罪、多以被糺断。妻妾〈并〉二歳男子等者、依有好、召預和田左衛門尉義盛、配安房国、今日於小御所跡、大輔房源性〈鞠足〉欲奉拾故一幡君遺骨之処、所焼之死骸、若干相交、而無所求。而御乳母云、最後令著染付小袖給。其文菊枝也〈云云〉。或死骸、右脇下小袖、僅一寸余焦残、菊文詳也。仍以之知之、奉拾了、源性懸頚、進発高野山、可奉納奥院〈云云〉

愚管抄では、一幡はこの時に逃げ延びたが2か月後に義時の刺客に殺されたとありますが、吾妻鏡では2日の戦闘時に亡くなったというニュアンスです。

愚管抄には載っていない粛清された人として、有名人なのは、島津忠久ですかね。薩摩の島津氏の祖になります。

島津忠久は比企の派閥だったようで、大隅・薩摩・日向の守護職を没収されています。比企の勢力がかなり力を持っていたことがわかりますね。

四日 己巳 被召禁小笠原弥太郎、中野五郎、細野兵衛尉等、此輩恃外祖之威、日来与能員、成骨肉之眤、去二日合戦之際、相伴廷尉子息等之故也。嶋津左衛門尉忠久、被収公大隅薩摩日向等国守護職。是又依能員縁坐也。加賀房義印束手、参遠州侍所〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年9月4日

その他にも比企に味方した人達は粛清されているのが吾妻鏡からわかります。

比企の勢力は一掃された形になりました。

頼家の出家

吾妻鏡と愚管抄で大きく違うのが、頼家の出家についての話です。

愚管抄では、戦闘が起きる前の8月31日に、大江広元邸で出家しているとありますが、吾妻鏡では日付が異なっています。

まず、9月5日になると、頼家が病から少し回復したことがわかります。

頼家は一幡と比企氏がすでに滅亡したと聞き、鬱胸に耐えられず、和田義盛と仁田忠常に時政を討つように命じます。

五日 庚午 将軍家、御病痾少減、憖以保寿算而令聞若君并能員滅亡事給、不堪其欝胸、可誅遠州由、密々被仰和田左衛門尉義盛及仁田四郎忠常等、堀藤次親家、為御使、雖持向御書、義盛、深思慮、以彼御書、献遠州、仍虜親家、令工藤小次郎行光誅之将軍家、弥御心労〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年9月5日

頼家は堀親家にその書状を渡して和田義盛に届けさせますが、義盛は頼家の命令をきかず、その書状を時政に渡します。時政は親家をとらえ、工藤行光に誅殺させます。

翌日の6日には仁田忠常の最後が書かれます。

時政は、恩賞を与えるために、忠常を名越の邸宅に呼びますが、忠常は日暮れが近づいても帰らなかった。それを怪しんだ忠常の従者は屋敷に帰り、事情を忠常の弟に告げます。

弟たちは、忠常が頼家から時政追討の命令を受けていたことを知り、すでに時政に処断されたと思って、その義憤を晴らそうと義時のところに押しかけます。

六日 辛未 及晩、遠州、召仁田四郎忠常於名越御亭。是為被行能員追討之賞也。而忠常参入御亭之後、雖臨昏黒、更不退出。舎人男恠此事、引彼乗馬、帰宅告事由於弟五郎六郎等。而可奉追討遠州之由、将軍家被仰合忠常、事。令漏脱之間、已被罪科歟之由、彼輩加推量、忽為果其憤、欲参江馬殿。江馬殿、折節被候大御所〈幕下将軍御遺跡、当時尼御台所御坐〉仍五郎已下輩、奔参発矢。江馬殿、令御家人等防禦給、五郎者、為波多野次郎忠綱、被梟首。六郎者、於台所放火自殺。見件煙、御家人等、競集。又忠常、出名越、還私宅之刻、於途中聞之、則称可弃命、参御所之処、為加藤次景廉被誅畢

『吾妻鏡』建仁3年9月6日

義時はその時に御所にいて、戦闘になりますが、忠常の弟らを討ち取ります。

さらに忠常は名越の時政邸から帰る途中にこの話を聞き、「命を捨てる」と言って御所に参上し、加藤景廉に誅殺されます。

これらの一連の流れの最後、9月7日に、政子の命令で頼家が出家したと、吾妻鏡にはあります。

七日 壬申霽 亥尅、将軍家、令落餝給、御病悩之上、治家門給事、始終尤危之故、尼御台所、依被計仰不意如此

『吾妻鏡』建仁3年9月7日

愚管抄では争いの前に出家し一幡に家督を譲ったという話でしたが、吾妻鏡の頼家は、2日に能員に時政追討を許し、その後の5日に仁田忠常や和田義盛にも時政追討を命じた上で、7日に政子に出家させられたとなっています。

実朝の征夷大将軍就任

吾妻鏡ではその後の10日に、千幡を将軍に推挙することになり、政子の元から時政の邸宅に移ったという話が載ります。後述しますが、猪隈関白記と矛盾する話になります。

十日 乙亥 吹挙千幡君、被奉立将軍之間、有沙汰。若君今日自尼御台所、渡御遠州御亭。被用御輿。女房阿波局、参同輿、江馬太郎殿、三浦兵衛尉義村等、候御輿寄。今日諸御家人等、所領如元、可領掌之由、多以被下遠州御書。是危世上故也

『吾妻鏡』建仁3年9月10日

また、10日の最後には御家人の所領を元の通りに認める書状を「時政」が出しているとあります。この書状は実物が残っていたりします。

時政はわかりやすく「自分が一番偉い」と公式文書でも伝えたわけですね。

ですが15日、千幡はすぐに時政邸から政子のところに戻ります。

阿波局の進言により、牧の方は守役としてふさわしくないとされ、政子は三浦義村と結城朝光を使いに出し、千幡を引き取ったとあります。

十五日 庚辰 阿波局、参尼御台所、申云、若君御坐遠州御亭、雖可然、倩見牧御方之体、於事咲之中挿害心之間、難特傅母、定勝事出来歟〈云云〉。此事兼思慮之内事也。早可奉迎取之由、御返答、即遣江馬四郎殿、三浦兵衛尉義村、結城七郎朝光等被奉迎取之遠州、不知子細、周章終以女房駿河局被謝申之処、成人之程。於同所、可扶持之由、被仰御返事〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年9月15日

時政は事情を知らずに狼狽し、駿河局を通して政子に陳謝したが、成人するまでは政子が養育すると返答されたとあります。

ということで、この後に来る、時政・牧の方グループvs政子・義時グループの争いについても、伏線を張っているという吾妻鏡編纂者の苦労が見て取れます。

吾妻鏡ではこれで頼家記が終わりになります。そのため、年の途中ですが17巻が終わりになり、実朝の征夷大将軍就任から、実朝記18巻が始まります。

ちなみに日付は同じ建仁3年9月15日になります。

十五日 庚辰、霽 幕下大将軍二男若君〈字、千幡君〉為関東長者、七日被下従五位下位記、并征夷大将軍宣旨。其状、今日到著于鎌倉〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年9月15日

実朝が征夷大将軍に任命されたという文書が、9月15日に届いたという話です。

京都との往復時間を考えても、かなり早い時期に、鎌倉から院に要請があったことがうかがえます。

こうして実朝を傀儡とした北条時政の政権がスタートします。すぐにつぶれますけど。

頼家の最後

修禅寺に押し込められた頼家ですが、11月6日に政子の元に手紙を送ってきます。

深山にいてとても苦痛なので、以前の近習を自分のところに送って欲しい、安達景盛については身柄を引き渡して欲しい、という内容でした。

安達景盛さんは妾を頼家に寝取られた話が吾妻鏡に載っている人ですね。その後の歴史を見ても、重要な北条一派の一員になる人です。母親が比企氏されているため、頼家・比企に近い可能性があり、ここで裏切ったが故の、頼家の要望なのかなと邪推したりします(妾を奪う話はちょっと怪しい感じがするんですよね。吾妻鏡編纂者、何かしてないですかね、この話)。

六日 庚午 左金吾禅室、自伊豆国、被進御書尼御台所、〈并〉将軍家、是深山幽棲、今更難忍徒然。日来所召仕近習之輩、欲被免参入、又於安達右衛門尉景盛者、申請之、可加勘発之旨、被載之、仍有其沙汰、御所望条々、不可然。其上、被通御書事、向後可被停止之趣、今日以三浦兵衛門尉義村、為御使、被申送之〈云云〉

『吾妻鏡』建仁3年11月6日

もちろん、時政や政子らが頼家のそんな条件を受け入れるはずもなく、さらに手紙を送ってくることもやめるべきとされ、使者として三浦義村をたてたとあります。

その後、頼家について、吾妻鏡では全然触れられません。まるでなかったことにされたかのような。

そして、吾妻鏡の頼家の最後は、少し寂しいです。

そっけなく、ただ、亡くなったことだけが告げられます。

十九日 己卯酉尅 伊豆国飛脚参著、昨日〈十八日〉、左金吾禅閤、〈年卅三。〉於当国修禅寺、薨給之由、申之〈云云〉

『吾妻鏡』元久元年7月19日

元久元年(1204)7月19日、伊豆からの飛脚で、18日に頼家が修禅寺で亡くなったと知らせが来たと、あります。

日付は愚管抄と同じです。こんなところだけは、愚管抄の記述と一致するんですよね。

吾妻鏡の比企能員の変

吾妻鏡の比企能員の変は、愚管抄の記述とは大きく違います。

一番の違いは、最初のアクションを起こすのが比企能員と頼家なところです。

比企能員と頼家が、時政追討で動き出すところが、そもそもの始まりとして描かれます。

愚管抄とは全く違いますね。

勝敗や犠牲者、粛清された人などは同じなのですが、その経緯や動機がまるで違うのが、比企能員の変の特長です。

あくまで北条は降りかかってきた火の粉を払っただけ(ということにしたい)というのが吾妻鏡編纂者の主張なのでしょう。

時政・義時の子孫が、吾妻鏡編纂者時代の北条得宗家なわけで、時政・義時、さらには泰時の正当性を汚すような書き方はできない、というのが良くわかります。

猪隈関白記の比企能員の変

最後に、猪隈関白記について少し触れます。

比企能員の変について、猪隈関白記や明月記に少しだけ記載があります。

『猪隈関白記』は近衛家実という関白になる人の日記です。頼朝の死の際に飲水の病と載せている記録でもあります。

この近衛家実さんは、父親の方が有名です。後白河と君臣合体の儀で有名な、藤原基通さんの息子さんになります。

そんな猪隈関白記に、ちょっと気になる話が載っています。

内容としては頼家が9月1日(朔日は1日のこと)に亡くなったという連絡が、9月7日に院に来たという話です。

9月2日が比企能員の変ですね。

頼家、まだ死んでないですよね。

頼家はまだ死んでないのですが、そういう連絡が院に来たという話が、猪隈関白記や明月記に載っているのです。

九月七日、壬申 関東征夷大将軍従二位行左衛門督源朝臣頼家、去朔日薨去之由、今朝申院云々、日者所労云々、生年廿二云々、故前右大将頼朝卿子也、件頼家卿一腹舎弟(年十二云々)、今夜任征夷大将軍、叙従五位下、名字実朝云々、自院被定云々、頼家卿子息(六歳云々)、幷検非違使能員(件能員頼家卿子息祖父也、)為今大将軍実朝、被撃云々、後聞、頼家卿子息不被撃云々、於能員者撃了云々、

『猪隈関白記』建仁3年9月7日

さらに、頼家の弟を征夷大将軍・従五位下に任じ、「実朝」という名を後鳥羽が自ら決めたとあります。

最初、頼家の子息と比企能員が討たれたとされているのですが、後から聞いた話として、頼家子息は生きていて、討たれたのは比企能員だけと追記されています。愚管抄の記述と一致しますね。京ではそういう認識だったというのがわかります。

この日記の記録は非常に重要でして、死んでいない頼家を死んだことにしているのがはっきりとわかります。誰かが嘘をついて院に工作をしているのがわってしまうわけです。

普通に考えて実朝を擁立した時政とそれに味方する武士・文官たちですよね。

吾妻鏡の話だけでは、この話の全体像はつかめないということが、よくわかる記録だなと思います。

おわりに

吾妻鏡をそのまま信じてはいけないというのがわかっていただけたでしょうか。

吾妻鏡編纂者は怪しいです。

かといって、他の史料が絶対に正しいとも限りません。

難しいですね。

ただ、このエピソードはまだ良いほうです。比較できる史料があります。吾妻鏡よりも同時代に近いものが存在します。

承久の乱とか…、どうしよう…、史料が…、史料が…。

他の史料と比較するとわかるのですが、吾妻鏡は要注意です。もちろん吾妻鏡も貴重な史料の1つではありますが。

吾妻鏡にしか載っていない話は、参考程度にしとくと良いと思うんですけどね。吾妻鏡だけに記載されるエピソードが、意外と歴史として語られていたりするので、この話を読んでいただくと、筆者が「吾妻鏡は危ないよ~」と言っている意味をわかっていただけるのではないかと。

吾妻鏡と愚管抄の記述は、「北条が勝ち」「比企派が粛清」されたこと、「頼家が追放」されたことという、大筋の内容は同じです。

しかし、その他の部分は大きく異なります。

何かを察するにあまりあるような、そんな吾妻鏡編纂者の書きっぷりが気になる、比企能員の変と頼家の最後でした。



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