刀猫

歴史とされている物の元ネタを探すのが趣味です。戦国今川氏、戦国松平氏、戦国織田氏を主に…

刀猫

歴史とされている物の元ネタを探すのが趣味です。戦国今川氏、戦国松平氏、戦国織田氏を主に勉強していましたが、ここ数年は吾妻鏡を読んでいます。そろそろ戦国時代に戻りたいです。

マガジン

  • 史料で見る鎌倉殿の13人

  • 史料で見るシリーズ

    史料で見るシリーズをまとめて登録

最近の記事

比企能員の変と頼家追放

比企能員の変と頼家追放に関しては、大きく分けて二つの記録があります。 それは吾妻鏡と愚管抄です。 二つの記録は、同じことを書いているのに、多くの点で異なっています。 多くの人が知っている話は、吾妻鏡の方なのでしょう。 しかしながら、愚管抄の話を無視することはできません。 というわけで、二つの史料を比べてみようというのが、今回の主旨になります。 頼家の最後についても、吾妻鏡と愚管抄は対照的です。最後をきちんと表現する愚管抄と、最後の詳細を書かない吾妻鏡。 1300

    • 平知康【史料で見る鎌倉殿の13人】

      平知康は不思議な人です。 「法皇、近日第一近習者也(『玉葉』治承5年1月7日状)」と玉葉に書かれるぐらい、後白河のお気に入りだった人ですが、数奇な運命をたどる人でもあります。 後白河法皇の腰巾着みたいな人だったはずなのですが、いつの間にか鎌倉にいて頼家に仕えていたりします。 平家物語では、法住寺合戦の知康をまるで道化のように表現します。 他にも、北条時連の「つら」を馬鹿にして改名を進言したり、頼家と狩場を見に行った帰りに井戸に落ちたりと、なんなのこの人と思ったりします

      • 梶原景時の追放【史料で見る鎌倉殿の13人】

        吾妻鏡だけを読むと、梶原景時という人は何が本当で何が嘘なのか判断に困る人でして。 例えばですが、石橋山の敗戦の際に、頼朝を見つけるも見逃すというシーンなんですが…。 怪しくないですか? この話は有名でして、源平盛衰記などでは吾妻鏡より少し詳細に、面白く描かれています。 梶原景時は義経の件もそうですが、なんともドラマチックな話が多いですよね。良いシーンでも悪いシーンでも、でき過ぎなんですよね。 筆者は性格が悪いので、こういうエピソードを見ると「ほんとかな?」とすぐに思

        • 官位で見る源頼家【史料で見る鎌倉殿の十三人】

          頼家は早くに失脚してしまうため、活動期間が短いです。 さらに吾妻鏡に建久7年から建久9年がないため、頼朝生存時の最後に、どのように後継者として育てられたのかがよくわかりません。 例えばですが、頼家がいつ元服したかなどもわからないのです。各種説はありますが、不明としか言えないんですよね。 この辺りは少し頼朝の死と似ています。 頼朝の死については以下に書きました。 今回は頼家について、主に公卿補任という史料を使って彼がどんな官位をもらっていたのかをみていきます。 官位

        比企能員の変と頼家追放

        マガジン

        • 史料で見るシリーズ
          25本
        • 史料で見る鎌倉殿の13人
          25本

        記事

          頼朝の富士の巻刈りと曽我兄弟の仇討ち【史料で見る鎌倉殿の十三人】

          頼朝の富士の巻刈りについては同時代の史料が無さすぎるので、実はよくわかりません。 筆者の書くコラムは「よくわかりません」ばっかりですね。 仇討ちの話としては曽我物語なのですが、こらちは史料として使うのが本当に難しいです。ただ、仇討ちを詳細に描くには曽我物語を使わないといけないのがつらいところでして、そうなると歴史として扱うのは難しいです。 ただ、それだけ言って終わってしまっては意味がないですし、曽我物語と吾妻鏡を対比した研究などもあるため、貴重な史料であることは間違いあ

          頼朝の富士の巻刈りと曽我兄弟の仇討ち【史料で見る鎌倉殿の十三人】

          なぜ歴史を史料で見るのか

          筆者のコラムを読んで、あなた素人なのにどうしてそんなに史料にこだわるの?と思われる方もいるんじゃないかなと、ふと思いました。 そのため、なんとなく筆者のスタンスを書いておこうかなと思いまして、こんなあまり意味のない文章を、茶軸キーボードうるさいなと思いながら、カタカタやっているわけです。 筆者は歴史とされているものの、元ネタを探すのが趣味です。 自分の感覚としては、この元ネタを探す作業はミステリーの犯人探しやパズルを解くのに似ています。 歴史から何かを学ぼうとか、あん

          なぜ歴史を史料で見るのか

          頼朝の死。詳細な記録はなく、死因は不明【史料で見る鎌倉殿の13人】

          頼朝が亡くなるのは、建久10年(1199)1月13日です。 死因はよくわかりません。 よくわからなくなってしまった一番の理由は、吾妻鏡に頼朝が亡くなる前の3年間の記録がごっそり抜けているからです。 吾妻鏡は1300年ごろの編纂とは言え、頼朝から続く鎌倉の武家政権が作ろうとした未完成の史書です。 嘘でもいいんですよ。公式が「そういうことにした」という話を、きちんと時系列を追って載せておいてくれれば、とりあえずそれでいいんですよ。 それがないのです。しかも亡くなる前の最

          頼朝の死。詳細な記録はなく、死因は不明【史料で見る鎌倉殿の13人】

          義時のラブレター。姫の前に一年以上手紙を送り続けた不屈の男【史料で見る鎌倉殿の13人】

          今回は小ネタです。 中世の武士の例にもれず、義時も複数の妻がいたとされています。 そんな義時妻の話を取り上げようと思います。 取り上げるのは、義時が比企藤内朝宗息女に一年以上手紙を送っていたという話です。 有名な話なんですけど、吾妻鏡がなぜこんな話を載せたのか、よくわからないです。 なんでこれ載せたんでしょうね。 吾妻鏡は義時めちゃくちゃ上げる話があるかと思えば、脈絡もなく唐突に名前がでてきて、それいる? みたいな話もあって、よくわかりません。 建武式目などで名

          義時のラブレター。姫の前に一年以上手紙を送り続けた不屈の男【史料で見る鎌倉殿の13人】

          亀の前事件。後妻打ちと北条氏の思惑。政子にアレされた頼朝の妾 その1【史料で見る鎌倉殿の13人】

          鎌倉殿の十三人の「亀の前事件」、面白かったですね。 亀の前については基本吾妻鏡にしか記載がなく、歴史として取り扱うのはとても難しいです。吾妻鏡、そんなのばっかりなんですよね。 とはいっても吾妻鏡に載っているわけでして、1300年あたりの北条氏近辺が何を思ったのか、事件を取り上げつつ妄想してみようかなという話です。 ドラマは吾妻鏡の記述と大きく違っていたので、比較してみると面白いと思います。 また、このお話は中世から近世にかけての日本の風習「後妻打ち(うはなりうち)」を

          亀の前事件。後妻打ちと北条氏の思惑。政子にアレされた頼朝の妾 その1【史料で見る鎌倉殿の13人】

          権記と御堂関白記の後妻打ち(うわなりうち)(宇波成打)【史料で見る歴史】

          鎌倉殿の十三人では、亀の前事件がけっこう大きく取り上げられましたね。 あれ、後妻打ち(うはなりうち)とされています。 筆者が後妻打ちを知ったのはタイムスクープハンターです。 もともと戦国時代が好きで勉強していましたが、当時は生活系の歴史はあまり調べてなかったので、番組内容は江戸時代とはいえ、とても興味深く見てました。 のろしをあげよとか旗振り通信をなぜか覚えています。それ以外は結構忘れてしまいました。 特殊な交渉術、憧れますね。物語の都合なのはわかりますが、こういう

          権記と御堂関白記の後妻打ち(うわなりうち)(宇波成打)【史料で見る歴史】

          義経の最後。逃避行の果てにたどり着いた奥州平泉【史料で見る鎌倉殿の13人】

          義経という人は、日本史のなかでも特に実像を追いづらい人です。 室町期からひたすらフィクションの元ネタにされてきたため、五百年以上の蓄積があります。現代では織田信長が創作のフリー素材のような使われ方をしますが、義経の場合は、それが何百年と続き、現代まで続いたみたいな感じの人です。 そのうちフィクションと歴史の境界線があいまいになり、いつしか混ざり合ってしまいました。義経チンギスハーン説などがまじめに語られてしまう時代があった時点で「何をか言わんや」みたいな感じですかね。

          義経の最後。逃避行の果てにたどり着いた奥州平泉【史料で見る鎌倉殿の13人】

          奥州から来た佐藤兄弟。佐藤継信(兄者)佐藤忠信(弟者)【史料で見る義経のスマホ】

          攻めてますね、義経のスマホ。 あの意識高い系の人たちが醸し出す絶妙な感じをTsurutterでリアルに再現し、義経に「苦手だな…」と言わせるの、すごいです。 製作者の人、意識高い系の人に嫌な目にでも合わされたんですかね。 いつもアグリーって言われてイラっとしてるんですかね。 そのなかで上総介広常のツイートが、おじさんを思わせる絵文字のツイートで、凝ってるなと思いました。内容も武衛の大願成就…。せつないですね。 公家モンでミチザネーをゲットし、Tsurutterアカウ

          奥州から来た佐藤兄弟。佐藤継信(兄者)佐藤忠信(弟者)【史料で見る義経のスマホ】

          吾妻鏡の西行と弓馬の故実【史料で見る義経のスマホ】

          平家のスマホを1000個集めるUnutube配信、「迷惑系うぬちゅぅばぁ」としてすぐに垢BANされそうですね。平家の家人が必死に通報している様が目に浮かびます。 牛若丸が結構DQN(古のネット用語、古事記にもそう書いてある)で笑ってしまった義経のスマホ、今回史料で取り上げるのは、童電話相談室でお馴染みの西行さんです。 西行さんと頼朝の面会は、鎌倉殿の13人ではスルーされましたが、吾妻鏡に記載があります。 かるーく吾妻鏡エピソードを紹介してみようという話です。 西行こと

          吾妻鏡の西行と弓馬の故実【史料で見る義経のスマホ】

          勝手に名前を変えられていた義経 → 義行 → 義顕→ 義経。改名の記録【史料で見る鎌倉殿の13人】

          古代・中世の人には名前を変える人が結構いるんですよね。 中世の武士の諱は基本漢字2文字で、家が代々受け継いでいる通字一文字と、烏帽子親や当時の主君など偉い人から漢字を一文字もらってつけるというのが基本スタイルでした。もちろん例外もあります。 名前は単なる好みの問題ではなく、家や所属する勢力や、自身の身分などを表す非常に大事なものでした。 そのため、名前を変えることで外部にいろいろ表明するというケースも出でくるのです。 北条時房のようにしょうもない理由で名前を変えること

          勝手に名前を変えられていた義経 → 義行 → 義顕→ 義経。改名の記録【史料で見る鎌倉殿の13人】

          静御前という名の虚構【史料で見る鎌倉殿の13人】

          静御前は非実在白拍子だったんだよ!! な、なんだってー!? という話ではありません。 静御前という名の白拍子を利用して、吾妻鏡編纂者が何を表現したかったのかを邪推する話です。 虚構というとちょっと大げさですが、静御前については吾妻鏡ぐらいしか史料がないため、扱いがとても難しいのです。 特に、鎌倉に連れてこられ、鶴岡八幡宮に参拝した頼朝と政子の前で舞をし、その後の一連の話などは、どこまで信じていいのかよくわかりません。 そうは言っても吾妻鏡編纂者がわざわざ採録したエ

          静御前という名の虚構【史料で見る鎌倉殿の13人】

          弁慶の立ち往生と吾妻鏡の武蔵坊弁慶【史料で見る鎌倉殿の13人】

          一昔前では有名人だった弁慶も、最近では源平合戦の知名度が落ちたせいで、知らない人もいるのかもしれません。20年前からすでにそんな兆候はありましたが。 史料としての話をするのならば、吾妻鏡では、弁慶は名前しか出てきません。延慶本・平家物語ではある程度活躍がありますが、その数は少なく、出自などもありません。 人口に膾炙した、弁慶が立ったまま討ち取られた立ち往生の話は「義経記」という物語にあります。 「義経記」は室町期の成立とされています。清水寺での義経と弁慶の逸話など、面白

          弁慶の立ち往生と吾妻鏡の武蔵坊弁慶【史料で見る鎌倉殿の13人】