精神障害者手帳持ち大学生が介護等体験に行った話

 記事を投稿するたびに口調が「だ・である」調と「です・ます」調を行ったり来たりして統一されていないことにはご容赦願いたい。2021年2つめの投稿になる。

 2020年11月某日。私は京都市内のある特別支援学校にいた。

 教職課程を履修している大学生なら多くが通る道──そう、介護等体験である。

 ところで、介護等体験について知らない方のために、その概要を述べておく必要がある。原則として体験は特別支援学校2日間+社会福祉施設(老人ホームや児童福祉施設など)5日間の計7日間であり、このうち社会福祉施設での体験に関しては基本的に日時や施設の種別などの学生の希望はほぼ通らないと言ってもいい。

 知っての通り昨今のコロナ禍は様々な場面に影響を及ぼしているが、この介護等体験も例外ではない。本来支援学校と社会福祉施設の計7日間で行われるこの体験も、特に感染リスクが高い高齢者への影響を鑑みたことから、社会福祉施設、中でも老人ホームでの体験は中止、レポートで代替という形になることが多かった。かくいう私もそうで(私自身は児童福祉施設で希望を出したが)、5日間の体験に関しては中止が決定したため、私が自らの足で出向き体験に参加したのは特別支援学校での2日間のみである。

 閑話休題ということで体験当日までの流れを少し話そう。当然ながらこの類の体験はフォーマルな服装で参加することが求められるが、私はスーツらしいスーツを大学の入学式や成人式で着た1着しか所有していなかった。加えて、この情勢の中、毎日自宅に引きこもっている状態で、ADHDゆえの衝動性がほぼ全て食に向いたため、少し、とは言い難いレベルで太ってしまった。その結果、どうなったかといえば──

 唯一のスーツが入らなくなった。

 

 大問題である。しかも気づいたのが体験の1、2週間前ときた。これではすぐウエストを調整するなどは困難だ。焦った私は近所のユニクロで大急ぎで適当なセットアップを購入し、体験校に電話で確認をとったうえでようやく準備を終えて体験に参加したのであった──。

 (ちなみに、ここから想像がつくように、概ね「スーツのように見える」服装であれば支援学校での体験に関して特にお小言を頂戴することはない。長髪であっても耳にかけたりゴムでくくっておけばとやかく言われることもない。髪色が気になる場合は、わざわざ黒染めしなくともスプレーでその日だけ黒くするかそれでも無理ならウィッグを買って被れ)

 さて、体験自体は先述したようにコロナの影響でかなり薄まった内容になっており、通常であれば生徒たちとグラウンドで体を動かしたりするところがほとんど省略されて教員の話を聞いて授業を参観するだけで終わった。そのうえ、短縮のスケジュールで敢行されたことも手伝ってこの私でもなんとかやり遂げられる程度には負担の少ないものであった。受け入れ先の生徒の多くは発達障害及び軽度知的障害の当事者だったため、意思疎通がそこまで困難でなかったことも一つの要因として挙げられる。

 しかし、思うところがなかったかといえばそういうわけでは全くない。それらについて、今から記していきたい。

 まず、小・中学校教員免許状の取得における介護等体験の義務化は1998年に行われたもので、法制度化されてから20年余りと比較的新しい。つまりそれはどういうことかというと、学生の前で偉そうに「介護等体験の心構え」なぞを語っている免許資格課程センターの教員の一定数は自らが教員免許状を取得するにあたって介護等体験を行っていないということである。これだけでももう既に体験の価値というものが怪しいが、彼らだけの責任でもないので深くは言及しないことにしよう。

 次に、私が精神障害者手帳を有する自治体公認のガイジであることはもはや周知のことであろうと思う。実は介護等体験には、体験への参加を免除される資格を有する者が存在し、その中には「身体障害者手帳を有する者」が含まれるのだが、なんと精神障害者手帳の所有者は免除対象ではない。つまるところ、「障障介護」「障老介護」という状況が発生する可能性さえあるというわけだ。一方で、あろうことか大学によっては精神障害を有する者の体験を認めない(実のところ黙っていればなんとかなりそうな話ではあるが)場合もあり、精神を患いながらも教職を目指す学生を冒瀆するような対応が平然と行われているのである。つまりそれは、「自らもハンディキャップを有する精神障害当事者の学生に義務とはいえ障害者や老人の介護という負担を押し付けながら、いざ必要だから体験に参加しようとなれば精神障害者はダメですの一言で門前払いされる場合もある」ということを意味する。一見矛盾が生じるようだが、私の主張を雑にまとめれば「手帳が交付されるレベルの精神障害者は『小中の教員免許状取得が可能な状態を維持した上で』『介護等体験が免除されるべき』」というものである。

 そして、体験での具体的内容に関してはあまり語らなかったが、引っかかった部分が一つだけあるのでそれについて申し述べておく。体験校の教員が話していたことに関してだ。

 彼らが終始語っていたのは、「己の障害を理由にして誰かに頼るばかりではなく、自分で努力して結果を出すことも覚えなければいけない」ということであった。これに関しては同意しよう。障害の名の下に胡坐をかき、できるはずの努力でさえも怠ることは愚かであるからだ。しかしながら、当然健常者と比較すると能力的には劣る部分が多いわけで、努力でカバーできる範囲にも限界がある。にもかかわらず、努力一つで何でもできるようになるかのような指導を行うことは、洗脳に近い行為ではないのか。もちろん、手足が動かない者に「努力で直立二足歩行できるようになれ」と言うのは無茶な話であるし、それについては教員らも語っていた。しかし、そこをどうにかしなければ──不自由な手足が健常者と同じように動くようにはならなくとも、彼らと比較しても生活に大きな支障がないレベルにまで到達するだけの外部からのサポートがなければ──努力だけでは根本的な問題解決は不可能である、ということは今更言うまでもないはずである。その前提を無視して、「健常者以上の努力」をしてやっと健常者における最低限のボーダーラインに追いつく意味が、どこにあると言えるのだろう

 ちなみに、ご大層なことをのたまっている免許資格課程センターの教員とは裏腹に、介護等体験を終えた学生の感想の一定数は「ジジババ身体知的ガイジ〇ね」である。つまり彼らは、体験に関して「行けと言われたから行き、やれと言われたからやった」だけでしかない。これでは体験を義務化した側や大学の教員の思惑はまるで達成されていないわけで、いよいよこの制度の意義が疑わしくなってくる。

 断っておくが、最初から障害児療育に携わる特別支援学校の教諭、あるいは高齢者の世話をする介護福祉士を目指すような学生にまでこの見方を当てはめる気は毛頭ない。しかし、一般的な小中高の教員を目指す学生の多くにとってこの制度が現状有益なものではなく枷となっていることを否定できない、ということを述べて、この記事を締めくくりたいと思う。それでは、また。

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