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HAPPY RETIREMENT

日本では引退したアスリートには「お疲れ様でした」と声をかける。
長いキャリアに費やした努力、遺した成果、犠牲にした時間。それらの全てに敬意を払ったねぎらいの言葉だ。

英語には「お疲れ様でした」にあたる言葉は無い。
『無い』と言い切った後に心配になってグーグル翻訳してみたら、出てきた言葉はこれだった。

Screenshot_2020-10-11 お疲れ様でした 英語 - Google 検索

hard workは”苦心”や”献身”なので、直訳すれば「あなたの献身に感謝します」だろうか。
「お疲れ様でした」とは少し違う気がする。

では、英語圏の人たちは引退したアスリートにはなんと言葉をかけるのだろう。
イギリスではどうなのか知らないが、アメリカでは”happy retirement”と言う。

「引退おめでとう」だ。

激動の現役生活を終え、これから始まるセカンドキャリアが幸せに満ちたものになるように。

そんな願いを、彼らは「おめでとう」という言葉に込めるのだ。

そして。

20年に迫る付き合いである私の友人が、10月2日の全日本陸上選手権をもって陸上選手を引退することとなった。
同年代で陸上部だった人なら名前を言えば大体分かる。それくらいに日本のトップを走り続けてきた選手だった。

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彼とは地元の小学校からの付き合いで、昔から抜群の運動神経の持ち主だった。
中学受験し地元とは疎遠になった私のこともずっと気にかけてくれる、恐ろしいほどの陽キャで楽しいことが大好きなパリピ。そして友達思いの良い奴で、底抜けに明るい。
地元の居酒屋に行けば「おお、〇〇くん!」と声をかけられるような、誰もが応援したくなる男だ。

中学から陸上を始め、中距離部門で全中、インハイ、インカレの中高大主要タイトルを全て制覇という、まさに赫々たる成果を挙げた。

彼はその後も本当に努力していた。結果につながるだけの努力だ。
陸上を応援してくれる会社に入って、練習場所を探して、トレーニングをして、大会に出て。
そして昨年、遂に全日本実業団選手権でリレーにて日本記録を叩き出し、優勝を果たす。

私が「次は東京オリンピックだな」と軽く話すと、彼も「オリンピック出たいねえ」と笑う。
東京オリンピックに出るなんて一般人なら考えもしないことだが、彼はそこに手が届かんばかりの努力と実績を重ねていた。

新型コロナウイルスの影響により東京オリンピックが延期となっても、彼は東京オリンピックを目指し努力を続けていた。
「引退一年延びたじゃん」「ほんとそれな」などと言って笑い合っていた。

家が近かったので、緊急事態宣言中はよく夕方に二人で近所を散歩した。
陸上トラックが閉鎖されているため彼も他の陸上選手たちも練習場所が確保できず、自宅でトレーニングをこなす日々を過ごしていたそうだ。

お互いの近況を話し尽して、今後の話もし尽くして、それでも散歩中に会話が途切れることはなかった。

散歩のついでに東京都知事選挙の期日前投票をしに行ったりもした。

誰に投票したか尋ねると「オリンピックやってくれる人」と言って、やっぱり笑っていた。

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9月30日、再び散歩に誘われる。全日の、彼が出場する競技の前々日だ。

「俺明後日の全日で引退するわ」と、彼は言う。少し寂しそうに笑っていた。

理由を訊いた。東京オリンピックまであと一年だったのに、なぜこのタイミングで?と。

アキレス腱の怪我だった。急性の大怪我ではなく、彼のキャリアで実績とともに積み上がってきた、小さく慢性的な怪我だ。

アキレス腱だけではなく、キャリアを支え続けてきた足首ももう限界だったそうだ。度重なる捻挫により靱帯が伸びきり、元に戻らなくなってしまったという。

そんな話をどっぷりと日の暮れた公園で、木の根っこを慎重に避けながら彼はしてくれた。

その日の散歩は、引退した後何をするかについてとことん話した。

ダイビング、サーフィン、スノボ、トランポリンなどなど、現役時代にできなかった怪我に繋がるアクティビティ。
”レックダイビング”という沈没船を巡るダイビングがしたいと私が言うと、それ最高だね、絶対やろうと彼が言う。

そして数年後のキャリア、数十年後の将来の話。
直近の話じゃないけどと前置きして、ゆくゆくは仲の良い友人たちが気軽に集まれるカフェを作りたい、と彼は言っていた。友人が多く誰からも愛される彼らしくて、俺も絶対通うわと答えた。

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10月2日。彼の出場日。

その日私は家の用事で銀行にいて、受付のソファに座りながらライブ配信で彼のレースを観ていた。

彼は出場時になかなか名前が呼ばれず、苦笑いしながらレーンに立っていた。どこまで行っても彼は彼のままだった。

レースの結果は予選敗退で、その日に引退が決まる。

走り終えた彼はすっきりしたようなモヤモヤしたような、複雑な表情をしていた。
私はそんな彼からしばらく目を離すことができず、呼び出し番号の再発行をする羽目になった。

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これまでの彼の14年間に、心からお疲れ様でしたと言いたい。
目標があって、目標に向かって具体的な努力をし、かつ結果を残すことは並大抵のことではない。私も中高大の10年間運動部だったし、スポーツから離れた今も社会人としてまさにそれを実感している。
競技スポーツのアスリートとして世界を相手に戦うならば尚更だ。

そして、引退おめでとうとも言いたい。
これから楽しいこと、ワクワクすること全部やろう。今までできなかった分も含めて。キャリアには関われないけど、プライベートでは最高の時間を過ごそう。

なんかこれ書いてる今になってまた涙が止まらなくなってきたけど、もう一つだけ言わせてくれ。

これからもよろしくな。


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