あなたを亡くして、私の中に育ったものは。
死産して3年。
産声を上げないまま生まれた次女。
遺体の映像とともに、分娩した時の感触、分娩室の照明、温度までが今でも蘇ってくる。
同じくらいの子供を見ては「もし、生きていたら、どんなだっただろう」とつい考える。でも、すでに『亡い』もののイメージは膨らまず、虚しさだけが残る。
そうだ。私にはわかっている。
亡くなった次女を想っているのではない。子供を亡くした自分自身を憐れんで、悲しんでいる。
周りには妊娠出産のニュースがあふれ、
何人も子供を抱えた人が疲れた顔で、でも幸せそうに子育ての大変さを語る。
羨ましくて、妬ましくて心がひりひりする。
ネグレクトされて餓死した、殴られ続けて亡くなった、、、子供の虐待死のニュースが報道される。
なぜ、そこに生まれ落ちたの。なぜ、私のところに生まれてきてくれなかったの。
答えは聞こえてこない。
まるで沼に沈みこむように、暗い感情が足元から私を飲み込む。
そんな時、傍でぺちゃくちゃ喋る、長女の汗ばんだ髪に触れ、柔らかなほっぺをつまみ、私によく似た一重瞼の奥のよく動く目を覗き込む。
私の目を彼女の表情を読み取ることに集中させ、
私の耳は彼女の声を聞き取ることに集中し、
歯を食いしばって体と心を切り替える。
それはまるで命綱のように私を暗い沼の底から引き上げる。
終わった生命が沈黙する一方で、続く生命は自由に歌い、踊り、泣き、笑い、抱っこを求める。
しかし、生命力の塊のような長女にも、冷たくなり、硬直する死の瞬間がいつか必ず訪れる。
次の瞬きの瞬間にそれはやってくるかもしれないのだ。
次女とのお別れは決して望んだものではない。
しかしただ受け入れて、生きるしかない。
その過程は複雑で、コントロールできず、とても苦しい。
次女はいない。
その喪失感は、長女にも『会えなくなる』という予感に変わり、やがて私の中心に根を張った。
長女に、眠る前のおやすみをいうとき。
朝、行ってらっしゃいをいうとき。
もし、これが生きた彼女を見た最後だったらと考えて身震いする。
一瞬一瞬、必死で「大好き」と伝える。
次女を失ってから、私自身が死ぬことは怖くなくなった。
次女に会える。
長女との別れのの瞬間まで「大好き」を伝え続けられるか。
私は今日もブルブル震えながら、必死で、生きている。
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