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vol.143 有島武郎「一房の葡萄」を読んで

有島武郎が亡くなって100年経った。今でも時々教員の教材として扱われているとのこと。

<概要>
「小さい時」の「ぼく」を、大人になった後の「ぼく」が語る話しとして描かれている。「ぼく」はある時学校で、同級生のジムの絵の具を盗む。それを知られてしまうが、先生の計らいでジムと仲直りできたという物語。(概要おわり)

この作品を教員教材として捉えるなら、過ちを犯した子どもにどう寄り添うか。教員としての、適切な指示と対応は。家庭や学校を含む社会全体の課題として受け止めるべきではないか。

そのようなテーマが浮かぶ。

しかし、もっと違う捉え方でこの作品を味わいたい。

この物語、教師が生徒をどう裁くか。被害者「ジム」が、加害者「ぼく」をどう許すか。教育現場で起きた罪と罰。そんな視点で読み返してみた。

被害は、大事にしていた高級な西洋の絵の具2本。前提事実は、誰かに盗まれる。被害者の「ジム」は盗んだ犯人を「ぼく」と特定する。証拠を明確にするため、3、4人の級友に依頼し、「ぼく」を取り囲む。みんなの前で、「ぼく」のポケットに入っていた盗まれた絵の具を取り出す。そして憎らしそうに「ぼく」を睨みつけて、先生の部屋に連れて行く。

加害者「ぼく」について、でき心とはいえ、盗みを働いてしまった。反省はしているものの泣き出すだけで謝罪はない。

事実を知った当日の先生は、優しく「ぼく」に微笑みながら、「あなたは自分のしたことを嫌なことだと思っていますか」と問う。反省があるなら、罪は問はないという諸事情を考慮しての判断。明確に答えない「ぼく」に対して人房の葡萄を与え、さらに「今日は教室に戻らなくてもいいから」と温情ある裁定をとる。

教育現場で起きた子どもの出来心が動機なら、当然のことだろう。しかし不思議なのが翌日の「ジム」の様子だった。

翌日、いやいや学校に行った「ぼく」に対して、なぜか絵の具を盗まれた「ジム」は親切に「ぼく」の手を取り、共に先生の部屋に行く。

「今からいいお友達になればいいんです」の先生の言葉に、戸惑うこともなく「ジム」の方から笑顔で「ぼく」の手をかたく握る。

「ジム」は翌日には「ぼく」を許している。その間、先生と何らかの話し合いをしたようだが、そこは描かれていない。先生はどんなコミュニケーションをとったのだろうか。

辛い立場は「ぼく」の方だから、もっと歩み寄りなさいと被害者の方に努力を促したのだろうか。少し違う気もする。

意図的にそこを考えさせる作品になっているように思う。だからこそ教員教材として扱われているのかもしれない。

有島武郎には、早くして妻を亡くし、3人の幼い男の子を育てなければならない状況があった。「小さき者へ」を読むと父の愛情に包まれて健やかに育つ子どもたちが描かれていた。この作品も、著者の子どもに対する願いや想いがあふれていた。子どもたちに接する大人は、こうあってほしいという理想を込めて書かれた作品なのだろう。

参考文献、立教大 石井花奈先生の「『エクスタシー』の記憶」論文は面白かった。

おわり


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