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vol.146 織田作之助「夫婦善哉」を読んで

大正から昭和初期の大阪を舞台とした、意志の弱い男柳吉としっかり者の女蝶子の物語。「みんな貧しくて、泣いて笑ってけんかして、人と人とが近すぎるほと近い時代」(1955年豊田四郎監督DVDより)

まさにそんな風景の中で描かれた、いとおしさと可笑しみが心に沁みる作品だった。

再読(2019年3月14日vol.36)

内容
蝶子は一銭天ぷら屋を生業とする種吉、辰子の長女として生まれる。17歳で芸者となり、化粧品問屋の息子柳吉と知り合い駆け落ちする。

柳吉は勘当され、どの仕事も長続きしない。そんな柳吉のために蝶子は、様々な仕事をして生活を支えようとする。一人前の男にして、実家の父に見せてやりたいという願もあり、時に蝶子は柳吉に厳しく当たり折檻もする。その度に柳吉は放蕩を繰り返す。そんなある日ふらりと戻ってきた柳吉が蝶子を誘い、法善寺横丁の「めおとぜんざい」に行く。(内容おわり)

どこかバタバタ喜劇的な物語の中にも、関東大震災や近親の死、または蝶子の自殺未遂や病気といった、悲劇的な要素がたくさん組み込まれている。にもかからわず、どこか明るく可笑しさがある。それは計画性のない行き当たりばったりのふたりの生き様からなのか、大阪を舞台とした語り口からなのか、あるいは蝶子のバイタリティあふれる未来思考からなのか。この物語、ページをめくるごとに味わい深い。

「めおとぜんざい」

そして最後のシーン。法善寺境内の「めおとぜんざい」での描写。「蝶子はめっきり肥えて、そこの座布団が尻にかくれるくらいあった」にどこかホッとした。蝶子と柳吉ふたりでぜんざいをシッポリすする姿に、共に生きる「めおと」の完成形みたいなものを感じた。

それにしても、何度も何度も裏切られながらも、ダメンズ柳吉を支えようとする蝶子の行動原理はどこからくるのだろうか。実家に対する意地なのか、母性なのか、あるいは大阪的庶民気質や義理人情の深さがそうさせているのか、そこが興味深い。

 1955年「夫婦善哉」森繁久彌・淡島千景 主演

1955年の映画も観た。柳吉を演じる森繁久彌は良かった。少しアゴを突き出しながら言葉を発する柳吉に、ほっとけない男の色気のようなものを感じた。

なにかと息苦しく自主規制の空気におびえている現代には、もう放蕩無頼の柳吉はきっと存在できない。だからせめてこういった作品で、義理人情が大切だった時代、個性がギリギリのところで許容された時代、わがままを薄めてくれる度量があった時代を思い浮かべてながら、この作品をもう一度味わいたい。

おわり


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