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vol.134 森鷗外「牛鍋」を読んで

思わず箸を伸ばしたくなる「牛鍋」を初めて読む。1,800字ぐらいの作品はあっという間に終わる。読み終わった後に、どういうことなのだろうと考える時間が好きだ。

<内容>
夫を亡くした女とその幼い娘と亡き夫の友人である男が牛鍋を囲んでいる。男は一人でひたすら箸を動かし牛肉を口に運んでいる。女は「永遠に渇しているような目」で男の動くあごを眺めている。幼い娘は箸を持って牛肉を食べる機会をうかがっている。

幼い娘が牛肉を食べようとすると、「待ちねぇ、それはまだ煮えちゃいねえ」と決まって男が止める。幼い娘は箸を持った手を引っ込める。やがて、どの肉もよく煮えているころ、幼い娘は男に構わず箸を動かし始める。男のすばしこい箸が一層すばしこくなる。「永遠に渇しているような目」をしている女の箸は最後まで動くことはなかった。

語り手は、「牛鍋」を囲んだ3人の様子から、猿の母と子が芋を奪い合う光景を思い出す。そして、「人間は猿より進化している」で終わっている。(内容おわり)

「鍋はぐつぐつ煮える」の書き出しから、スーッと入る。しかし締めは「人間は猿より進化している」でプツッと終わる。「えっ、どういうこと?」って、釈然としないまま読み終える。

登場人物は3人。一場面だけのこの小説、きっと何か深い意味があるに違いない。

この作品、何か解説はないかとGoogle scholarで検索する。東北学院の原貴子先生の論考があった。

「食をめぐる「本能」の争いと、助け合いというふたつの問題の提示」だとしていた。

どこかしっくりこないが、そいうい視点で4回目を読んだ。

この作品でいう「本能」とは、男がひたすらひとりで肉を食べる「本能」と、幼い娘も自分も食べたいと行動する「本能」と、女は余裕もなくただじっと男の顔を見る「本能」が入り混じっている状況がある。それを「本能」と解するのだろうか。

もう一つの問題として、「助け合い」もどこかしっくりこない。

幼い娘がなんとか「牛鍋」の肉を得ても、負けずと男もすばしっこく箸を動かして肉を奪い合う。女は最後まで、箸を動かす余裕もない。

どのあたりが助け合いなのだろうか。

もっと僕なりに勝手な想像を膨らましてみる。

この「牛鍋」の代金はきっと男が払っているのだ。亡くなった女の夫は男の友人であるから、男は友人に何か借りがあったに違いない。そこで少しは恩返しをと、女とその娘を誘って「牛鍋」屋に行く。

しかし、美味しそうな「牛鍋」を前に、肉を独り占めしたくなった男は、誘ったにもかかわらず、女と幼い娘を前にただただ食欲に任せるままに肉を食らったのだ。

「人間は猿より進化している」は逆説的表現で、むしろ助け合わない男の無慈悲さを描いたのではないだろうか。「社会は冷たい」を言いたかったのかもしれない。

鷗外先生、今年で没100年になりますが、少しは社会は人に優しくなれたでしょうか。

おわり

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