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vol.101 グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」を読んで

口減らしのために、親が幼い子どもを捨てる。グリム兄弟が描いたメルヘンに、うすら寒さを感じた。

「明日の朝はやく、子どもたちを連れて森の奥まで行きましょう。・・・子どもたちをそこに置きっぱなしにするのよ。ふたりは森の中でさんざん迷って、帰れなくなるでしょう」

母親のこんな提案から始まる、中世ヨーロッパの民話を集めた幻想的な物語を読んで、僕は何を感じたのだろうか。

あらすじ

ヘンゼルとグレーテルは貧しい木こりの家に育った兄と妹。ある時、飢饉で食べるものがなくなってしまい、このままだと家族4人共倒れになるからと、母親は幼い子どもたちを森に捨てようと提案する。当初父親は反対したが渋々承諾してしまった。

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ある日、森の中に置き去りにされたヘンゼルとグレーテルは、1度目は家に帰ることができたが、2度目の時、森の中をさまよいながら、お菓子の家にたどり着く。しかしその家には、人食い魔女が住んでいた。その魔女は兄のヘンゼルを太らせて煮て食べてしまおうと企む。泣き虫だった妹のグレーテルは、兄を助け出そうとする。そしてついに、魔女をかまどに突き落とし焼き殺してしまう。二人でその家にあった宝石を奪って持ち帰る。
やっとの思いで家に帰ると、あの嫌なお母さんはもう死んでいた。優しいお父さんと、手に入れた宝石で、食べるものには困らずに暮らすことができた。(あらすじおわり)

童話は非現実的な空想と想像の作品として読んでいるけれど、主な読者は子どもたちだと考えると、この内容にかなりゾッとする。子どもの心理に不安を感じてしまう。

泣き虫だったグレーテルが、森の魔女を焼き殺した上に、財宝を奪い取り、母の死に安堵しながら、自分に優しい兄と父と十分な食料の中で幸せに生きるという、なんとも反社会的な行動の上に得た「幸せ」に、子どもは何を感じるのだろうか。

怖い森の魔女と憎き母親が同一人物の設定なら、育児放棄した親を子ども自らやっつけたというオチに、子ども達は拍手喝采するのだろうか。その上で、大人たちは信用できないので、自分たちの力でなんとか生活しましょうという自立の促しを感じるのだろうか。

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大人になると、なんだか童話をまっすぐに読めない。なんでも解釈したがる。すぐに理由付けをしたくなる。育児放棄、家族愛、兄弟愛、孤独、生命、生きる糧などのキーワードを浮かべてしまう。

親が子どもを養う法的根拠も道義的義務もない時代に、家族の形態も「今日で家族解散します」的な薄いつながりの集合体がまかり通る空想話に、どう付き合おうか、戸惑ってしまった。

今回たまたま図書館でこの童話集と目があったけれども、直接的な政治参加が認められていない子どもたちの視点で描かれた、粗悪な大人たちをやっつける話にときどき触れたいと思った。

おわり

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