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君たちは憂歌団を知っているか。

ブルース・バンド : 憂歌団とは、Blues Bandの邦訳
(Blues=憂歌 Band=団)

木村充揮・内田勘太郎・花岡献治・島田和夫
75年にショウボート・レーベルからデビュー。
デビュー曲「おそうじオバチャン」がいきなり放送禁止Aランクに指定された。98年に活動休止。2012年、島田和夫が他界。 2013年、島田和夫の追悼イベント“憂歌団からの便り~島田和夫祭り~”を機に、約15年ぶりに復活。

心斎橋筋を一本横道に入ったところに、「一色」という小さな居酒屋がある。お金が無いときには、なにはともあれ「一色」へGOだった。

ほぼ手の込んだものはなく、給食の皿みたいなのに載ってくる。お世辞にも「美味いお店」では無いけどリーズナブルで有名なお店だった。
なによりも、そのころは「トマト」を頼むと「(生)キャベツ」がついてくる。キャベツだけは一度頼めばあとの追加は、いくらでもおかわりが出来るという仕組み。お金が無いときはキャベツばかりをおかわりすれば酒が飲めるw 学生にはありがたいお店だった。


ある日の夕方、まだあたりは明るさが残っていたころ、お店の中はどう見たってサラリーマンには見えない人ばかりでほぼ満席だった。
オイラ達は2人だったので、4人掛けの2人席が余っているところを探していた。混んでいるときには相席は当たり前で、元気と愛想だけはいい看板娘「アイちゃん(仮名)」の指図で奥のテーブルへと導かれた。

「すんません。ここええですか?」と声をかけて座ろうとすると

「ええよ。ええよ。ここ座り」と席をずらしてくれたのが、ボーカルの木村さんだった。びっくりして横の人を見るとなんとギターの勘太郎さんだった。

もちろんこのときはメジャーデビューは果たしていたし、「おそうじオバチャン」もリリースしていた。れっきとしたミュージシャンだったわけです。

「マジで、木村さんと勘太郎さんですよね?」

「そうやで」と普通にニチャニチャ笑ってた。

その頃は、上田雅樹やRCサクセションも聞きに京都のライブハウスまで行っていたし、「憂歌団」も何度も見ていたから感激しておったまげたわけだった。

よくよく考えれば、「憂歌団」は、工芸高校(阿倍野)時代に木村さんと勘太郎さんが結成したんだから、南で飲んでいても不思議は無い。けれども芸能人なのにまったく人目を気にせず、安居酒屋で相席するってのに驚いた。
かつ廻りの飲み客達はまったくの知らん振りで気がついていない。つか、そもそも知らなかったと思う。

一緒に行った相方のほうは、ギターをやっていたから、神様・勘太郎さんにコード進行の質問とかしてたが、それもはじめのうちだけで、少したてば知り合いの兄貴みたいな様子で一緒に飲んで盛り上がっていた。


少し酔っ払ってきたので、何でこの店に来ているのか聞きたくなった。

「ここへはよく来るんですか?」と相方が聞いた。

「そやな、安いやろココ。トマトは冷えてないけどキャベツ只やし」と木村さんが言って、勘太郎さんを見たらグラサンで目は見えなかったけど、口は「ニヤニヤ」笑ってた。

「あ、あれが、放送禁止になったしなあ。金無いしなァ」と笑っていた。

二人とも終始ニヤニヤして楽しそうだったので、ホンマに仲が良かったように見えたけど「本当に金が無かった」のかどうかは、定かじゃない。


その後もこの店で何度か見かけたし、立ち飲みやでも遭遇したことがあるから、安い店やこんな飲み方が好きなんじゃないかと思ってる。


この間、心斎橋へ行ったときチラッとお店が垣間見れたが、何にも変わっていなかった。看板も同じで店構えも当時のまんまで流石にびっくりした。
あのコスト体系で、長持ちしているもんだと思ったが、懐かしくてあの時の話を思いだしていた。

あれからずいぶん月日も経ったし、歳も重ねたから、流石に「一色」には行かなくて良くなったが、木村さんと勘太郎さんはどうなんだろうな?って。

扉を開けるとニヤニヤ笑って座ってそうだけどwww



ボクサー木村光揮+CHAR+石田長生



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