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棚の中身を取り出して親に見せてみた(比喩)

先日、こんな記事を書いた。

https://note.com/ka6925/n/n88f19df34e90

あの記事を書いて、わたしは漠然と「自分の棚の中身を見せないといけないな」≒「親とちゃんと話をしなければいけないな」と思っていた。

「親が自分のことを知ってどう思うか」という自分で勝手にかけた呪いをなんとかしなければ、これから先もずっと自分の目線で人生を送ることができなくなってしまう。

毎回実家に帰ると、それとなくわたしの結婚に対する意志への探りが入る。

先日そのタイミングで、今まで言ってこなかった自分の恋愛についての話をした。
多分、これが、わたしが一番親に知って欲しくなくて、知って欲しかったことだ。ずっと勝手に抱えてきた呪いで、地獄で、悲しみだと思ってきたこと。


わたしは、これまでほとんど恋愛経験がないこと。

人と生活をすることが、今時点では想像できないこと。

母が想い描いているような、家庭を築くということがわたしには今時点でできる自信がない。お母さんもお父さんも子供が大好きで、わたしが子供を産んだらどれほど嬉しいかということは想像できるし、それが叶わないと考えると、どれほど悲しいかということも想像できる。でも、できる自信が到底ない。

自分が誰かと過ごす上で、超えて欲しくない壁があって、その壁の内側を見せることがすごく怖い。人と暮らす上での距離感を縮めたいと思えるような相手に出会えたことがない。
それが悲しくもある。1人で暮らす楽しさとは別として、悲しい。なによりも、おそらく期待してくれてるお母さんとお父さんに申し訳ない。

ということを伝えた。

こんなこと、親子でいう必要なんてないのかもしれない。言わずに済むなら言いたくなかったし、しんどかったけど、これを言わないと進めないと思った。親がいつかいつか、と思ってくれている気持ちに耐えられない。

わたしは親と繋がったプレッシャーという糸を自分で切らなければならないと思ったから、話さなければならないと思った。

「親のことなんて気にしなければいい、自分の人生なんだから」と言うのは簡単だ。わかる。わたしもそう想うよ。

そして幸運なことにわたしの親は、「何を選んだとしても応援する」と育ててくれた。そんな親に育てられたとしても、気にしないことなんてできないんだ。それが私だから。心持ちで意識を変えることはできないし、「こんな自分が嫌だ」と嘆いても仕方ない。だから、そういう自分がいる、ということを認めて、こんなわたしがいるんだよと声を挙げて、想いを伝えなければいけない。

話しながらやっぱり涙が溢れてしまって、本当に嫌だった。涙って本当に厄介。「泣く」ということにばかり言及される。これから会う人たちに伝えたいんだけど、私の涙にはマジで理由は一切ないので気にしないでほしい。想いを伝えようとすると勝手に出てくるんだよ。悲しくても出ない時もあるし出る時もあるし。なんのバロメーターでもなくて生理現象だから。そこじゃなくて言葉に注目してくれ。

もっとさっぱりカラッと話したかった。でもこのじめじめした重苦しいどろどろっとした人間性がわたしなんだ。仕方ない仕方ない。

うまく話せたかはわからないけど、母はかなりわかってくれた。謝ってほしかったわけでは毛頭ないのだけれど、「今まであなたに言った色々、ごめんね。」と言ってくれた。

そして、もうひとつ。母から、「私はかわいそうじゃないから。お母さんのことをかわいそうだと思わないでね」と言われた。
そうだ。本当にそう。わたしの人生は、やっぱりお母さんの人生じゃないんだ。ごめん。やっぱり自惚れていた。わたしはわたし、お母さんはお母さんでそれぞれ立っている。強い人だ。ありがとう。

これってもしかして、やっと親離れなんじゃないのかな。28歳にして。情けないな。

なんか本当に、わたしってめんどくせ〜!

世の中のいろんなことを勝手に自分で面倒くさくして、考えなくていいことをめいっぱい考えて、考えすぎて、頭ショートして勝手に病んでる。何度こういうことを繰り返すんだろうね。でもこれがわたしだ。仕方ない。

人の数だけ生き方がある。わたしはわたしの生き方での幸せを見つけていきたいと思っているし、完全に自分はこういう人間だ、と言い切れるほどにわたしは自分のことをわかっているわけでもない。ていうか、一生ないだろう。体験とか出会う人で自分という人間性は変わって当たり前だ。軽やかに変わり続けられる人でありたいと思っている。

世の中にはいろんな普通がある。マイノリティ、マジョリティというけど、明確に色付けして区別することはできない。みんなが無数のグラデーションの中で暮らしている。

わたしだってそう。頭ではわかっているけど、「みんなができていることが自分にはできない」という居心地の悪さは、ずっと自分の中にある。

でも、傍から見たら幸せに見える人にも、その人を生きる上での地獄があることはわかっている。みんなその地獄を抱えている。
(https://booth.pm/ja/items/5246374 別件ですが突然紹介したくなってしまいました。しりひとみさんの「これも地獄と呼ばせてほしい」という本は最高です。)

さらけ出すも地獄、出さないも地獄なんだけど。
(まあ今回のわたしの話は自分の地獄レベルとしては割とライトな方だと思っていますが)

今回のことも全然美談じゃなくて、別になにも解決してないし、「話さなければよかったぜ」と「話してよかったぜ」のサイクルをぐるぐるし続けている。自分の深い深い内面の話をした後ってそうなるよね。

でも、深い内面を出したことがない私だったから、ひとまず。
28歳の軽やかな挑戦ということで、ひとつ。
親に言えなかったことを言ってみたよ〜、わたしの中にある割とライトな地獄と向き合ってみたよ〜、という体験記でした。

今日の一曲

Call My Name/Rei

飛行機雲を見たよ
新しいギターを買ったよ
晩御飯ができたよ
今何してるの?

Call my name
Darling can you call my name?
名前を呼んで 呼んで
それだけでいい

先日、Reiのライブに行った。

この曲演奏前のMCで、「この曲は好きな人を健気に想う切ない女の子の歌でもあるけど、それだけじゃなくて。名前を呼んでもらうってそこにいていいんだよっていう気持ちが込められていると思っていて。」と話してくれた。(記憶があやふやで、ニュアンスですみません)

名前を呼ぶ。

最近、名前について考えることが多い。好きなアイドルグループが改名したことも大きい

心の奥の奥の奥にいる自分、人に見せられない自分の名前を呼んであげる。

肯定でも否定でもない。
そこにいるから、呼ぶ。

まずは自分。自分で呼んだそのあと、やっぱり、誰かにも呼んでほしいと思うよね。

最近気づいたんだけど、結局自分にウソってつけないんだよね。悲しくてもヤバくても天国でも地獄でも、事実って変わらないから。
事実をどうにかするとかじゃなくて、そうなんだと淡々と受け止めることを、やっていこうね。


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