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【P-006】昭和のプロレス~その時歴史が動いた~

私は1969年生まれです。小学生で初代タイガーマスクに熱狂し、その後は前田日明を追いかけました。世の中の格闘技志向がひと段落すると、「やっぱり、ジャンボ鶴田が最強だよね」なんて思い始め、三沢、橋本いいよ!なんて言っていたプロレスファンです。

さて、人間とは不思議なもので、進化の過程では常に新しいもの、スゴイものを求めますが、行く着くところまで行ってしまったと感じると何故か昔を懐かしむようになるのです。テレビゲームも映像があまりもキレイ過ぎると、ドット画が良かったね、なんて言ってみたり、エッチな映像も「あからさまでもねぇ、日活ロマンポルノの方がそそるよね…」なんて思ったりします。私の中ではだいぶ前からプロレスでそんな感じになっています。もちろん、現在のプロレスも好きですが、最初からスピード感満載の展開や、派手なコスチュームや大技の数々は、色々ともったいないなぁ、と思ってしまいます。そんな訳で「昔は良かったなぁ」というオヤジ思考で、昭和のプロレスをあらためて勉強しています。

昭和のプロレスは、テレビ誕生時からの優良コンテンツだったので、テレビ局もかなり力を入れていました。テレビが普及することにプロレスが大いに貢献したことは間違いありませんし、「力道山×日本テレビ×三菱電機」という座組みで、「金曜日夜8時=プロレス」というイメージが確立し、現在でも語られる「金曜夜8時」につながっています。

この「金曜夜8時」は、ある時期までは日本テレビのものでしたが、ある日を境にNET(現在のテレビ朝日)に代わります。最近、BSテレビ朝日で「金曜夜8時にプロレスが復活!」という話題がありましたが、これは完全にテレビ朝日の「ワールドプロレスリング」のことです。私自身のイメージもコレです。私と同年代の方や、もっと若い方も同じだと思います。「金曜夜8時は、日本テレビの日本プロレス中継だよ」と言う方は、60代後半以降の世代の方ではないでしょうか。

「金曜夜8時」が、何故日本テレビからNET(テレビ朝日)に代わることになったのか?どうやって代わったのか?関連書籍から興味深い内容が色々と見えてきました。

力道山から裕次郎へ!

日本テレビの「日本プロレス中継」は、1972年(昭和47年)7月14日(金)で終了し、翌7月21日から伝説の刑事ドラマ「太陽にほえろ!」が始まりました。力道山時代からの日本テレビ「金曜夜8時」がプロレスではなくなったのです。そして、その番組枠を受け継いだのが、“石原裕次郎”だったのです。共に戦後の大スターです。力道山から石原裕次郎へ、これは単なる偶然でしょうが、非常にシビれる流れです。

その1週間後の7月28日の金曜日から、NETは「金曜夜8時」のプロレス中継を始めます。(ここに至る経緯がありますが、これは後述します)従って、「金曜夜8時」が日本テレビからNETに代わったのは『1972年7月28日』となります。

それでは、日本テレビとNETのプロレス中継の経緯を時系列で整理したいと思います。

力道山が昭和38年に亡くなって以降も、日本プロレス(力道山の興したプロレス団体)のテレビ中継は日本テレビが担っていました。力道山亡き後は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木によって、プロレス人気は再燃していました。そんな人気スポーツ、人気コンテンツのプロレスを他局は羨望の眼差しでみていたことでしょう。そのひとつがNET(現在のテレビ朝日)でした。

NETは、日本テレビが中継していた日本プロレスを放送させて欲しいと動きます。日本テレビと日本プロレスが特に独占契約を結んでいなかったこともあり、何とか割り込もうとしたわけです。もちろん、日本テレビは面白いはずはありません。しかし、日本テレビは、日本プロレスからも押されて条件付きで渋々OKを出すことになります。条件とは「馬場と坂口を出さない。」「ワールドリーグ戦(春の人気興行)公式戦を放送しない」というものでした。その当時の「一番おいしいところ」だけは譲りたくなかったわけです。まぁ、当然ですね。

条件はあるものの、放送出来ることになったNETは、1969年(昭和44年)7月2日(水曜日21時~22時)から、日本プロレスの中継を始めます。これが実現した裏には、前年からのグレート東郷の日本進出(新団体設立)の動きがあり、それを阻止する日本プロレスとの攻防があったといいますが、ここでは割愛します。

毎週水曜日21時からのNETのプロレス中継では、自ずとアントニオ猪木を中心とした内容になっていきました。ジャイアント馬場の試合を放送出来ないので、これは自然なことですが、この馬場派、猪木派とも言うべき流れが、後の「新日本プロレス」、「全日本プロレス」という2大勢力になるわけですから、歴史とは面白いものなのです。

月曜日夜8時

1969年7月2日から日本プロレスの中継を始めたNETは、1970年4月6日から、放送枠を月曜日の20時に移行しました。これによって生中継も可能になりました。この頃から、当初NGであった坂口征二の試合やワールドリーグ戦の公式戦も徐々に放送可能になったといいます。(ただし、馬場は絶対NG)これにより、毎週月曜20時は、NETで中継、金曜日20時は日本テレビで中継というカタチになりました。プロレスファンからすれば、何とも羨ましい時代です。

第1回NWAタッグリーグ戦

1970年9月には、「第1回NWAタッグリーグ戦」が開幕し、11月5日に決勝戦が行われました。(優勝は猪木&星野勘太郎組)
このリーグ戦は、NETから日本プロレスに対して提出された企画でした。NETは、毎年春に開催されるドル箱興行「ワールドリーグ戦」の公式戦を放送することが出来ないため、その対抗策として考えられたものです。NETは、ジャイアント馬場の試合は放映出来ないので、このタッグリーグ戦では、馬場と猪木が組まないことも、ここに含まれていたといいます。NET発の企画なので、当然「おいしい試合」の放送を期待していましたが、猪木が出た決勝戦は、何と日本テレビが放送するという皮肉な結果になりました…。

UNベルト

第1回NWAタッグリーグ戦終了から2ケ月が経った1971年1月にアメリカから来日したミスターモト(外国人のブッカー)から日本プロレスにあるオファーがありました。1970年10月にUN王座が新設されたので、猪木をこの王座に挑戦させないか?というものでした。猪木を盛り立てたいNETは大喜び。猪木は3月26日にロサンゼルスで同王座に挑戦し、見事奪取しました。ここに“NET用のシングルベルト”が日本にやってきたのです。これこそ現在「三冠王座」の一角として続く、『ユナイテッドナショナルヘビー級選手権』です。当時の日本プロレスのエース、ジャイアント馬場が「インターナショナルヘビー級選手権」のベルトを巻き、続く猪木が「UN選手権」のベルトを巻くという図式が完成し、この伝統は80年代後半の全日本プロレスにおけるジャンボ鶴田(エース=インターナショナルヘビー級)、天龍(エースの次のポジション=UN)の時代まで続きます。(その後、馬場の代名詞的なPWFヘビー級と合わせて3冠統一され現在に至ります。)

第2回NWAタッグリーグ戦

1971年秋、昨年に続きNWAタッグリーグ戦が開催されました。11月1日に決勝戦が行われ、猪木、坂口組が優勝。実況席には、翌日猪木と結婚式を行う女優の倍賞美津子さんがゲストとして招かれており、猪木にとっては最高の優勝になりました。

まさかの、猪木日本プロレス追放

そんな優勝気分も束の間、猪木は会社乗っ取りを企てたとして、
12月13日に何と日本プロレスを追放されてしまいました。
困ったのはNETで、突然“試合中継のエース”がいなくなってしまったのです。(猪木は3ケ月後の1972年3月に新日本プロレスを旗揚げします)1972年の1月から猪木無しでの試合中継となりました。こうなるとNETは、何としてもジャイアント馬場の試合を中継し視聴率を上げたいと考えます。実際、日本プロレスに対しても要望しますが、もちろん日本テレビがOKするはずがありません。

NETに馬場登場!?

しかし、日本プロレスの芳の里社長は1972年4月1日に記者会見を開き、4月3日の新潟大会の中継からNETに馬場が出ることを発表してしまいます。日本テレビが高視聴率の日本プロレスの中継を止めるはずがない、NETに馬場を出しても大丈夫だろう、という楽観的な見通しによる発表だったようですが、もちろん日本テレビは大激怒。当然です。4月末には、スポンサー(三菱電機)の意向も確認し、日本プロレスとの絶縁を決めます。1972年5月12日の「第14回ワールドリーグ」の決勝戦を生中継後の5月15日に会見を開き中継打ち切りを発表。日本テレビは、これ以降7月14日の最終回までは、過去のタイトルマッチ等の再放送(「日本プロレス選手権特集」という番組名)で「金曜夜8時」をつなぐことになります。これによって日本プロレスの試合中継はNETの独占状態になりました。因みに、ジャイアント馬場はNETの放送に1972年4月3日から8月21日までの期間、計24回登場しています。

昭和のプロレス、その時歴史が動いた、1972年7月28日(金)夜8時

日本テレビが日本プロレス中継の撤退を表明し、番組は7月14日に最終回となります。翌7月21日から「太陽にほえろ!」が始まります。「金曜夜8時」のプロレス中継枠が空いたことで、NETはそれまでの月曜日に加え、金曜夜8時にもプロレス中継を始めます。これは7月28日からのことです。「太陽にほえろ」開始の翌週からのスピード対応でした。因みにNETのこの放送枠は何をやっていたのか気になり、当時の新聞の縮刷版を調べてみました。NETの金曜日は、夜7時から30分枠で「変身忍者嵐」、7時30分から9時までが「洋画特別席」とありました。「変身忍者嵐」は、石ノ森章太郎原作の特撮ヒーロー番組。水木一郎アニキが歌う主題歌が懐かしい作品です。♪へんしんにんじゃ~あらし~見参!♪というフレーズが耳に残っています。「洋画特別席」は、海外の映画を吹き替えで放送していた番組なので、変更もしやすかったのだと思われます。

ジャイアント馬場、辞表提出

歴史が動いた「1972年7月28日」の翌日の1972年7月29日、ジャイアント馬場は、日本プロレスに辞表を出します。そして、8月18日の宮城県石巻大会を最後に離脱します。7月28日から週2回放送にしたばかりなのにNETは苦境に立たされます。馬場、猪木という2大看板が両方いなくなってしまったからです。馬場が抜けた以降も8月28日から9月25日までは“週2回”で頑張りましたが、さすがに厳しくなり、1972年9月29日から月曜日を止めて「金曜夜8時」に一本化します。週2回放送はわずか2ケ月で終わることになりました。

馬場も猪木もいない…

1972年9月29日から「金曜夜8時」にしたものの、馬場も猪木も映らない当時のプロレス中継がジリ貧になっていくのは、容易に想像出来ます。NETは、9月29日から12月29日まで14回放送しましたが、その間に「猪木・坂口合体プラン」の動きを加速させます。すなわち、新日本プロレスを発展的解消し、新会社を設立、社名は日本プロレスとし、その中継をNETが行うというものです。猪木は旗揚げ後、テレビ中継がないために苦しい状況が続いており、日本プロレスも馬場、猪木が抜けて厳しい状況は一緒だったために、どちらにとってもプラスになる計画でした。日本プロレス側は坂口が取りまとめていましたが、当時のエースである大木金太郎は韓国に帰国中でした。戻った大木は、この計画に反対。選手の中には大木に寝返る者も出ましたが、NETは猪木、坂口を一緒にして、その放送をするということを変えずに淡々と進めました。
坂口は、1973年2月16日開幕の日本プロレスの「ダイナミックシリーズ」の途中で、賛同者4名を連れ、4月1日に猪木に合流することを発表しますが、大木以下9選手は、そのまま残留を決意します。

NETでの新日本プロレス中継スタート

1973年4月6日(金)夜8時、NETでの新日本プロレスの中継がスタートしました。ここから我々世代がイメージするテレビ朝日での「金曜夜8時」が1986年9月19日まで続くことになります。これに伴いNETは、日本プロレスの放送を3月30日で終了しました。テレビ中継を失った日本プロレスは、4月の「アイアンクローシリーズ」を最後に崩壊。残された選手は、前年の10月に旗上げしたジャイアント馬場率いる全日本プロレスに吸収されることになり、力道山が始めた‘日本プロレス’は消滅します…。以降は、力道山の弟子であるジャイアント馬場とアントニオ猪木が覇権争いを繰り広げるのは周知の通りです。あっ!国際プロレスもお忘れなく~! (終)

【参考文献】
ベースボールマガジン社
「日本プロレス事件史Vol.2 テレビプロレスの盛衰」





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