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【短編小説】奇妙な落とし物(後編)

私が妊娠したのを機に、松田家は一戸建てに引っ越すことになった。
本当は出産前に引っ越したかったが、想像以上に家探しが難航してしまい、最終的に引っ越しが完了したのは、息子の隼人が1歳の誕生日を迎える頃だった。

生まれたばかりの子どもとのマンション生活は、精神衛生上よくはなかった。
子どもが泣く度に近所迷惑になっていないかを考え、泣き止ませようと必死になっていた。
当時は、こちらがどれだけ必死になっても泣く時は泣く生き物だと思えなかったのだ。

片や新しい家での生活は騒音問題とは無縁で、それだけでも私の心にゆとりを生み出してくれた。


マルコメ君として我が家を和ませていた隼人も、1歳半を過ぎる頃には前髪が目にかかるくらいまで伸びてきていた。
流石に散髪してあげたかったが、人見知りも場所見知りも激しい隼人を美容院へ連れて行くのは、現実的ではない。
経済的に安く済ませたい気持ちもあり、初回は自宅でカットすることに決めた。

食欲旺盛な隼人の場合、チャンスは食事中かYoutubeに夢中になっている時の二択である。
食事中は切った髪がふりかけになってしまわないか心配だったので、後者で勝負を仕掛ける。
好きなダンスの動画が始まる度に動き回るので、一度で終わらせることは難しかった。
一緒に遊ぶ係の陽介さんに協力してもらい、隙を見て私が少しずつ切る。
それを隼人のおでこが半分ほど見えるまで何度も繰り返した。

散髪前に、予め切りたい箇所の少し下をマスキングテープで止めておいたので、切った髪の毛の大部分は散らばらずにテープに貼り付いていた。
それでも微調整のために切断した一部の髪はフローリングに落ちており、隼人を近寄らせないよう、陽介さんに誘導してもらいながら、私は掃除機をかけた。


髪の毛の掃除をしていると、ふと、前に住んでいたマンションのベランダに落ちていた人毛の束が脳裏を過った。

あの人毛は、今処理している息子の髪の毛とはまるで違う。
誰のものかも、どうして落ちていたのかも、分からなかったものだ。

ただ、当時とは私も立場が異なっていた。
今の私には、何となく答えが想像できたのだ。

あれはきっと佐野さんの息子さんの髪の毛で、ベランダで散髪した時のものが落ちて来たんだ。

その時の私は思い込んでいた。
散髪は美容院でするものだと。
幼い頃に自宅で母親に切ってもらっていた記憶はあるが、それにしても室内でやるものだと。
だから、ベランダに髪の束が落ちていて、パニックになってしまった。

今なら分かる。
子どもの髪の毛を切るのは大変で、後始末のことを考えたら風呂場やベランダも選択肢になりうるのだと。


その日の夕食の席で、ドキュメンタリー番組を観ていた陽介さんが言った。

「見て、ベトナムの青空理容店だって。今度から隼人の散髪は庭でやる?」

テレビに目を移すと、タレントさんが道路に鏡と椅子だけが置いてあるところで散髪してもらっていた。
まさに、昼間の私の推理を裏付けるようなシーンだった。

そんな中、何てことない様子で庭での散髪を提案してくる陽介さんは、あの“人毛事件“のことを覚えていないのかも知れない。


<あとがき>
上の階にどんな人が住んでいるのか。
マンションで育児をする大変さ。
屋外で散髪をする文化。
「知らない」のは恐ろしい、ということです。

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